2023年6月16日金曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」3章3〜15節 万物を造り歴史を導かれるお方(その3)

万物を造り歴史を導かれるお方 「ハバクク書」3章3〜15節(その3)

主なる神様は荒野を歩むイスラエルの民を雲の柱と火の柱によって導かれました
(「出エジプト記」13章21〜22節)。
「ハバクク書」3章5節からは、
カナン人たちにとって疫病や死が彼らの恐れ拝する偶像となっていた
当時の様子が伝わってきます。
実はそれらは神などではなく
神様が悪に対する戦いで用いられる手段にすぎないものであることを
預言者ハバククは指摘しています。

 

神様が御自分を人々にあらわされるときにはしばしば地震がともないます。
この地震は神様による裁きが到来するしるしでもあります(3章6節)。
このことについては「出エジプト記」19章16〜19節、
「詩篇」18篇8節、「エレミヤ書」4章23〜26節、10章10節
なども参考になります。
 
3章7節に出てくる「クシャン」と「ミデアン」は放牧の民でした。
 
3章8節の「川」には、
ナイル川(「出エジプト記」7章20〜24節)、
紅海の横断(「出エジプト記」14章15〜31節)、
ヨルダン川の横断(「ヨシュア記」3章15〜17節)
などが関連付けられるでしょう。
 
「弓」と「矢」(3章9節)は、聖書では
神様による裁きをあらわす比喩として用いられることがしばしばあります
(「申命記」32章23節、「詩篇」18篇15節(口語訳では14節))。
次の「詩篇」もその一例です。
 
「わたしを守る盾は神である。
神は心の直き者を救われる。
神は義なるさばきびと、
日ごとに憤りを起される神である。
もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、
その弓を張って構え、
また死に至らせる武器を備え、
その矢を火矢とされる。」
(「詩篇」7篇10〜14節、口語訳)
 
「ハバクク書」3章11節からは、
イスラエルの民がギベオンの住民を救い出した勝利において起きた
次の奇跡が想起されるかもしれません。
 
「主がアモリびとをイスラエルの人々にわたされた日に、
ヨシュアはイスラエルの人々の前で主にむかって言った、
「日よ、ギベオンの上にとどまれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ」。
民がその敵を撃ち破るまで、日はとどまり、月は動かなかった。
これはヤシャルの書にしるされているではないか。
日が天の中空にとどまって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。
これより先にも、あとにも、
主がこのように人の言葉を聞きいれられた日は一日もなかった。
主がイスラエルのために戦われたからである。」
(「ヨシュア記」10章12〜14節、口語訳)
 
太陽にまつわる奇跡は旧約聖書には他にも例があります。
ユダ王国のヒゼキヤ王の時代には日の影が逆戻りするという現象が起きました。
これについては
「列王記下」20章8〜11節および
以下に引用する「イザヤ書」の箇所で述べられています。
 
「そのころヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。
アモツの子預言者イザヤは彼のところに来て言った、
「主はこう仰せられます、あなたの家を整えておきなさい。
あなたは死にます、生きながらえることはできません」。
そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて主に祈って言った、
「ああ主よ、願わくは、わたしが真実と真心とをもって、み前に歩み、
あなたの目にかなう事を行ったのを覚えてください」。
そしてヒゼキヤはひどく泣いた。
その時主の言葉がイザヤに臨んで言った、
「行って、ヒゼキヤに言いなさい、
『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられます、
「わたしはあなたの祈を聞いた。
あなたの涙を見た。
見よ、わたしはあなたのよわいを十五年増そう。
わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、この町を守ろう」。
主が約束されたことを行われることについては、
あなたは主からこのしるしを得る。
見よ、わたしはアハズの日時計の上に進んだ日影を十度退かせよう』」。
すると日時計の上に進んだ日影が十度退いた。
(「イザヤ書」38章1〜8節、口語訳)
 
「ハバクク書」3章12節の「踏みつける」という動作は
作物の収穫や穀物の脱穀への言及とみなすことができます。
収穫は神様による裁きの比喩として旧約聖書ではしばしば用いられてきました
(「歴代志上」21章20節、「イザヤ書」25章10節、

「ミカ書」4章13節)。また「アモス書」1章3節とも比較してみてください。