2021年3月17日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック ヨナを憐れんでくださる神様 2章1節

「ヨナ書」2章 ヨナのしるし

  

ヨナを憐れんでくださる神様 2章1節

 

いよいよヨナが海に投げ込まれることになったとき、

ヨナ自身も船乗りたちもヨナは溺死すると考えたことでしょう。

 

「そこで人々は主に呼ばわって言った、

「主よ、どうぞ、この人の生命のために、われわれを滅ぼさないでください。

また罪なき血を、われわれに帰しないでください。

主よ、これは御心に従って、なされた事だからです」。」

(「ヨナ書」1章14節)。

 

ところが、人には死しか見えないところに、神様は命を創ってくださいます。

そして、ヨナにもこの奇跡が起こりました。

 

海の嵐が引き起こしたのは神様の怒りではなく憐れみでした。

この嵐は神様に従わなかったヨナを懲らしめるためのものではありませんでした。

神様はヨナがニネヴェへの福音宣教の旅に出発することを望まれたからこそ

嵐を起こされたのです。

神様はニネヴェの人々にも憐れみを示されたかったのです。

 

私たちの人生においても、

あたかも神様が怒って私たちを懲らしめようとされている

と思えるような出来事が起きるかもしれません。

しかし、実際にはそれは神様の愛のあらわれなのです。

 

私たちは時として自分で立てた計画や希望にとらわれすぎるあまり、

それらと合わないことなら何であっても

「神様による懲らしめやいじめ」であるとさえ思い込んでしまうことがあります。

にもかかわらず、

私たちの意思が実現せず、その代わりに、

神様の御意志すなわち最善の御心が実現されるのは、

神様の愛のあらわれなのです。


たしかに私たちが望んでいたことは「よいこと」ではあったかもしれません。

しかし

「よいこと」が「最善のこと」の最悪の敵となってしまうのはよくあることです。

もしも「よいこと」で満足してしまうなら

「最善のこと」を達成する機会は永遠に失われてしまうからです。

ところが、

神様は私たちにはいつも「最善のこと」だけを与えることを望んでおられます。

神様が私たち人間の期待することをいつも実現してくださるとは限らないのは

こうした理由によるのです。

 

神様は私たち人間の期待することではなく、

御自分のお立てになった救いの計画を実現なさるということを

常に覚えておきましょう。

 

先にも書いたように、

ヨナが海に投げ込まれた出来事は

イエス様の十字架の死をあらかじめ示しているものでもあります。

イエス様が死なれたとき「すべては終わった」と弟子たちの誰もが思いました。

「イエス様は我々の期待や計画を実現しないまま死んでしまった」

と彼らは考えて失望し、すっかり落ち込みました。

たとえば、イエス様が十字架で死なれた後に

エマオへ向かったイエス様の二人の弟子たちの言葉からも

その落胆の深刻さが伝わってきます

(「ルカによる福音書」24章19〜24節)。

 

ところが、神様はそのような弟子たちを驚愕させる奇跡を行われました。

十字架と墓はすべての終わりではなく、

それとは逆に、新しい時代の幕開けだったのです。

それと同じく、ヨナが海に投げ込まれたことも、

ヨナにとってすべての終わりではなく、

もともとの神様の御計画であった

ニネヴェへの福音伝道の旅の新たな始まりを意味していました。