2021年3月10日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック ヨナと船乗り 失敗に終わったヨナの逃亡の試み 1章4〜16節

ヨナと船乗り 失敗に終わったヨナの逃亡の試み 1章4〜16節

 

神様から逃げおおせるのは不可能であることをヨナは理解するべきでした。

「詩篇」139篇7〜10節、「アモス書」3章8節、

「エレミヤ書」20章9節などに書いてある通りです。

 

「わたしはどこへ行って、

あなたのみたまを離れましょうか。

わたしはどこへ行って、

あなたのみ前をのがれましょうか。

わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。

わたしが陰府に床を設けても、

あなたはそこにおられます。

わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、

あなたのみ手はその所でわたしを導き、

あなたの右のみ手はわたしをささえられます。」

(「詩篇」139篇7〜10節、口語訳)

 

ところが、神様から逃げようとする人々は今も後を絶ちません。

そして、この「逃亡劇」は一刻も早く終幕するに越したことはない

ということも変わっていません。

神様の指し示される正しい目的地に向けて舵を切ることが

私たちの人生の早い時期に行われる場合には、

不毛な放浪の期間もそれだけ短くなります。

 

人は皆、個別に神様と対面しなければならなくなる時が必ず来ます。

これは遅くとも最後の裁きの時には誰にでも起きることです。

しかし、神様との最初の出会いが最後の裁きの時になる場合には

残念ながらもはや手遅れです。

 

ヨナの乗った船を襲った嵐は、主なる神様によって引き起こされたものでした。

聖書ヘブライ語の構文では主語は動詞の後に位置するのが普通です。

ところが、この箇所のヘブライ語原文では「主」という単語が文頭に来ています。

これは主語を特に強調する表現です。

ほかならぬ神様が御自分の計画を実行に移されたのです(2節)。

このヨナのケースからもわかるように、

私たちが神様の御心に激しく反対しようとすればするほど、

それだけ厳しい手段を神様は用いなければならなくなります。

これは私たちが神様の御声に従うようにするためなのです。

「耳のある者は聞くがよい。」(「マタイによる福音書」11章15節)

とイエス様が言われているように、

私たちは「聞こえる耳」と「見える目」とを神様からいただけるように

切実に祈り求めなければなりません。

 

ここで私たちは驚かされます。

異邦人である船乗りがヨナのところにやって来て、

ヨナも自らの神に祈るようにと促したのです(6節)。

ちょうどヨナは神様から逃げようとしていたのに、

異邦人がヨナに神様に近づくよう命じているわけです。

このように神様は時には御自分のことを知らない人々

(例えば非信仰者)さえも用いて御心を実現なさる場合があるのです。

 

ヨナ自身はすでに知っていたある事実がくじを引くことで

船乗りたちの前で明るみになります(7節)。

自分が天と地と海を創造された神様に仕える身であることを

ヨナが告白したことによって、

この嵐がヨナのせいで起きたことがはっきりしました(9節)。

 

10節は私たちに大切なことを教えてくれます。

活ける神様への信仰をもっていない人々は、

自分では神様の御心に従うつもりがないにもかかわらず、

キリスト信仰者には神様の御心を行うことを当然のように要求してくるということです。

「キリスト信仰者は一番熱心に読まれている第五の福音書である」

などと言われたりもします。

 

ヨナは自らに死刑の宣告を下すことになりました(12節)。

船乗りたちはこの厳しすぎる裁きを喜んで受け入れることができず、

ヨナに同情し、なんとか彼を救い出そうと奮闘しますが、

どうにもなりませんでした(13節)。

 

多くの現代人にとっても、神様の下される裁きは厳しすぎると感じられます。

それゆえに、裁きそのものを人間にとってもっと喜ばしいものに変えようとします。

しかし、こうした試みは結局のところ徒労に終わります。

 

とうとう船乗りたちも神様の御心に従うしかなくなりました。

神様が望まれたのは船の難破ではなく、ヨナがニネヴェに向けて出発することでした。

こうしてヨナは海に投げ込まれました。

 

私たちはここでヨナの出来事とイエス様の御業との間に共通点と相違点を見いだします。

イエス様は十字架で犠牲の死を遂げられました。

それは人類を救うために必要な神様の御業だったのです。

ヨナは船が救われるために自らが犠牲となりました。

イエス様が苦しみを受けられたのは御自分の罪のためではありませんでした。

それに対して、ヨナの場合は神様の御心に従わなかったために海に放り込まれたのです。

 

なぜヨナは船乗りたちの生命を救おうとしたのでしょうか。

なぜ彼らが滅ぶままに放っておかなかったのでしょうか。

このことについては、ガイドブックの終わりで

「なぜヨナがニネヴェの人々を憐れもうとしなかったのか」

という問題を考えるときにふたたび取り上げることにしましょう。

 

はたして船乗りたちの信仰はその後も保たれたのか、

それとも危険が去った後に忘れ去られてしまう一時的なものであったのかは、

はっきり書かれていません。

 

さて、海に放り込まれたヨナはどうなったのでしょうか?