2020年4月29日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 敵は私よりも強力で 「詩篇」143篇1〜6節

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 

敵は私よりも強力で 「詩篇」143篇1〜6節

詩人は「詩篇」では頻繁にあらわれる状況の中に置かれています。
敵の攻撃を受けているのです。
ですから、
彼はここできわめて具体的な意味での救済と赦免を
命がけで神様に祈り求めていることになります。
自分の弱点と罪が神様から助けを受けるための妨げになりはしないか、
と詩人は心配しています。
詩人は神様に自らの罪について包み隠さず告白し、
その上で敵から解放されることを懇願しています。

敵についての言及にはどういう意味があるのか、
少し立ち止まって考えてみましょう。

「詩篇」で頻繁に登場する「敵」に関する記述は、
キリスト信仰者に難しい問題を投げかけます。
どうして「神様のもの」である人々には敵が付きまとうのでしょうか。
どうしていくつかの「詩篇」では、
敵どもが不幸になるように祈願されているのでしょうか。

こうした疑問に対してはいくつもの解答を用意することが可能です。
最初に提示するのに適切であろう解答は
伝統的なキリスト教に典型的な答え方であり、
その意味では正答であるとも言えます。
しかし一方で、
それは最後まで留保しておくべき答え方でもある、
という観点をとることもできます。
この答え方によれば、
伝統的なキリスト教文献においてしばしば見られるように
「敵たち」とは人間のことではなく、
悪の諸霊や悪い思いや罪などを指していることになります。
しかしながら、このような「霊的な説明の仕方」によっては、
御言葉の内容を具体的に理解しないまま、
抽象的に把握するだけで終わってしまう危険性があります。
ですから、
聖書を読み解く際にすぐさま霊的な解釈に走ることは避けるのが賢明です。
もちろんキリスト信仰者の敵どもは「ひとつのまとまり」をなしており、
そこには罪や死や悪魔も含まれます。
にもかかわらず
「詩篇」の内容にさっさと抽象的な解釈を施して事足れりとする態度は
「詩篇」自体を理解する上で大きな妨げになります。
ですから、
先の疑問に対する正統的で基本的な答え方は、
できるかぎり具体的に「詩篇」を解釈するやり方ということになります。
すなわち、
敵の集中砲火を浴びているために独力では脱出不能な状況下にいる
「神様のもの」である人がここでは描かれている、という解釈です。
その人は命からがら避難場所を探し求め、神様に助けを願っています。
このような極端な状況は、
誰からの圧力も受けることなく快適で不安のない生活を享受している
現代の多くのキリスト信仰者にとっては
想像することさえ難しいものかもしれません。
しかし一方で、このような状況は
キリスト信仰者が今も迫害を受けている国々に住みながら
命がけで宣教活動に取り組んでいる人々にとっては
きわめて身近で切実な現実そのものです。

経済的にも宗教的にも安心して生活できる社会に住んでいる
現代のキリスト信仰者にとっても、
社会の大多数の意見を占める世論が、
キリスト教やキリスト信仰者に対する憎しみや迫害を増長する方向に
変質してしまう場合には、
今述べたように「詩篇」を具体的な実情と照らし合わせて解釈するやり方が
より身近に感じられるようになることでしょう。
そのような状況下で生きている人ならば、
特別な説明を加えなくても
この「詩篇」のメッセージを素直に受け止めることができると思います。
自分が受けている圧迫と苦しみについて
神様の御前に注ぎ出して嘆き叫んでいる人は、
自らの苦難の数々をいちいち類別したりはしないでしょうし、
またその必要もありません。

それゆえ「詩篇」において注ぎ出されている悲嘆の叫びは、
あらゆる種類の圧迫や苦しみの中で生活している人の祈りとして、
今でもよく当てはまる祈りであると言えます。

私たちは「敵」についての詳細な一覧表を作成する必要などありません。
たとえば、迫害する者、侮辱する者、異端の教師たちも「敵」ですし、
病気、罪、死、悪魔の力も「敵」と呼ばれるにふさわしいものです。