2020年4月1日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 可能性がまったくないままに 「詩篇」130篇1〜3節


可能性がまったくないままに 「詩篇」130篇1〜3節

神様の御前に出た詩人は「深い淵から」叫びます。
自分がどんどん沈んでいき今にも死に絡めとられようとしているからです。
これは、小さく罪深き人間が大きく聖なる神様の御前にいる、
という構図になっています。
詩人は自分の罪を弁護しようとはしませんし、
それから話題をずらそうともしません。
神様の御前において「義なる者」はひとりもいません。
全人類について普遍的にあてはまるこの事実は、
個人についても(ここでは詩篇朗唱者自身についても)あてはまることです。

神様がどのようなお方であるか、
聖書は多くの箇所ではっきり語っていますが、
の「ざんげの詩篇」もまた神様について同じ印象を私たちに与えます。
すなわち、
神様は人間にとって「気さくな友人」などではないし、
これからもそうではない、ということです。
神様は私たち人間とは常に何らかの点でまったく異なる存在なのです。
たしかに神様は私たち人間を愛してくださる御父様です。
しかしそれと同時に、
神様は聖なる光輝の中に住まわれる神聖な存在でもあります。
私たちが神様のこの神聖さを見失うことが多いのはどうしてなのでしょうか。

やや唐突ですが、マルクス主義哲学がこの問題の理解を助けてくれます。
この哲学によれば、
神とは実際に存在するものではなく単なる社会の投影物にすぎません。
強大な権勢を誇る峻酷な王侯や支配者がひしめいていた頃の社会においては、
労働者階級は彼らに屈服するのを余儀なくされ、
彼らの機嫌を伺わなければなりませんでした。
おそらくこのことからの類推によって、
当時の人々は天界の上流階級に対しても
「峻酷な支配者」というイメージをもったのだと思われます。
ところが、時代とともに民主主義が浸透し、
もはや人々が彼らと同じ人間である権力者に恐怖を感じなくなると、
天界の上流階級についての「厳しい天の主人」という
それまであったイメージは「優しくて民主的な人民の代表者」という
新たなイメージに置き換えられました。
それにともない「神様」について主張されることは、
そのすべてがたんに「人間の想像を反映したもの」にすぎないとみなされ、
もはや「実際に存在する何か」としては理解されなくなりました。

このような無神論的な神理解について、
私たちはどのように返答するべきなのでしょうか。

神様は実際に存在し、御自分を聖書において啓示なさっている、
と私たちキリスト信仰者は信じています。
私たちは心を込めてこの信仰を守ります。
かつて自ら御自分について啓示なさった神様という存在は
決して何か別の存在に変化することがありません。
ところが、それとは反対の教えを含む、
前述のマルクス主義的な宗教観やそれと類似する世界観が
私たちを取りまく現代の世界においては広範囲な影響力をもってきています。
人が神様の聖なる御言葉から離れ去り、
聖書の中心的な真理を忘却してしまうとき、
その人にとっての「神」はもはや実在する真の神様ではなく
「神」についてその人が抱いている想像を反映したものにすぎなくなります。
それとは異なり、
真の神様はその御意思を私たち人間に聖書を通して啓示しておられるのです。
それによれば、
神様は罪を憎まれ、罪を犯す者を罪のゆえに死に至らせ、
罪人に対しては厳しい裁きを下すお方です。
しかしその一方で、
神様は憐れみ深く、究め難いお方でもあります。

この大いなる神様へ深い畏敬の念を抱きつつ、
私たちは皆「シオンの山」に、
すなわち神様の御前に近づいていくことになります。