2020年4月8日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 「主には、いつくしみがあり」 「詩篇」130篇4〜8節

「主には、いつくしみがあり」 「詩篇」130篇4〜8節

この「詩篇」は詩人が
大いなる神様のことも自らの罪深さのことも知っていることを示しています。
これはまた、
善そのものであられる憐れみ深い神様への信頼の表明でもあります。
自らの狭小さと罪深さを正直に告白する詩人は、
同時にその一方では、
神様から助けと罪の赦しの恵みをいただけることを確信しています。

私たちはここで再び罪の本質について考えさせられます。
罪はこの世において
何らかの悪い影響を後から来る者たちに与えてしまうものです。
そして、詩篇朗唱者本人も民全体もこの悪影響の下にいるのです。

神様の恵みは瞬間的な罪の赦しだけにとどまるものではありません。
恵みには、
神様に信頼しつつ未来へと目を向けて神様の憐れみ深い働きを待ち望む
という持続的な側面もあります。
詩篇朗唱者自身だけではなくイスラエルの民全体もまた、
御自分の民を憐れんでくださる神様にこのような希望を持ち続けているのです。

ところで、信仰というものを
「所有する信仰」と「切望する信仰」とに区別する考え方があります。
そして、この「詩篇」は
信仰のこれら二つの側面をひとつに結びつける可能性を提示しています。

神様の恵みは不確実なものではありません。
キリストのゆえに、
私たちにはすでにすっかり用意が整っている完全なる罪の赦しがあります。
ですから、この罪の赦しを待ち続けたり切望したりする必要はないのです。

しかしその一方で、罪とは、
私たちが永遠の世界において、天国か地獄か、
いずれの住人になるかを決めるためにだけ
重大な意味を持つものなのではありません。
この世においても、罪のもたらす諸結果は
罪深い存在である私たち人間を様々な問題に巻き込んでいきます。

しかしながら、
キリスト信仰者は罪に覆われているこの世で生きて行く時に、
神様の限りない恵みと愛の中へと安全に避難することができるのです。
この避難では忍耐強く待ち続けなければならない局面がしばしばあります。
そのような時には、
神様は避難中の私たちを決して放置したり捨てたりはなさらないことを
深く信頼しつつ、次の「詩篇」の箇所にあるように
「夜回りが暁を待つ」よりもさらに確固とした希望を持ち続けましょう。

わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。
そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、
夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
イスラエルよ、主によって望みをいだけ。
主には、いつくしみがあり、
また豊かなあがないがあるからです。
(「詩篇」130篇5〜7節、口語訳)