2016年12月21日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 16章3〜5節 アキラとプリスカ

アキラとプリスカ 1635


アキラとプリスカ(プリスキラ)というユダヤ人夫婦も
パウロの挨拶の対象となっています。
「使徒言行録」18章にも彼らは登場しています。
西暦49年に、彼らはローマから退出しなければならなくなりました。
この年に、ローマ皇帝クラウディウスがユダヤ人をローマから追放したからです。
ローマ人歴史家スエトニウスは、
ユダヤ人たちが「クレストゥス」に煽動されて暴動を起こした、
と記しています。
当時普通の奴隷の名前だった「クレストゥス」(「まとも」という意味)と、
私たちの主の御名「キリスト」は、当時同じように発音された言葉でした。
スエトニウスが事態を誤って理解し、
ユダヤ人たちがこぞって誰か奴隷の指導の下で暴動を起こした、
と勘違いしたのだと思われます。
ところが実際には、ローマ在住のユダヤ人たちは、
ナザレのイエスがキリストであるかどうか、互いに論争していたのです。
これらの争いの中で、
イエス様を受け入れようとしなかった不信仰なユダヤ人たちは、
イエス様を信じるユダヤ人たちに対して
シナゴーグ(ユダヤ人の集会堂)からの追放などの懲罰を適用したのであろう
と思われます。
その処置が非常に厳しいものであったため、
周囲の注目を集めるほどの騒乱が生じてしまったのでしょう。
ユダヤ人たちのローマ追放は徹底さを欠く短期間の処置だったものと思われます。
皇帝クラウディウスが54年に没した後、ユダヤ人追放令は解除されました。
ですから、アキラとプリスカがその後再びローマに戻ってきていたのは
大いにありうることです。
彼らは主を証しする勇気ある信仰者でした。
パウロの説明によれば、彼らはある時には、
使徒の命を救うために自らの首を差し出すことさえしたのです(164節)。
この出来事について、私たちは残念ながら何も知りません。
もしかしたらそれは、
パウロがエフェソで経験した大きな危険と関係があるものかもしれません。
この出来事も私たちには謎のままです。
ともあれ、アキラとプリスカの家ではキリスト信仰者たちが集っていました。
これは、彼らの居住地には多くの小さな信徒の群れがあったことを
示唆しているものと思われます。
パウロは普通の場合、手紙の宛名として特定の教会を想定しますが、
ここではそれとは異なり、手紙の受け取り手が「ローマの教会」ではなくて、
「ローマにいる聖徒たち」宛てになっていることに注目しましょう。