2016年6月29日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 14章 パウロは一切の規定を嫌っていたのでしょうか?(その2)

パウロは一切の規定を嫌っていたのでしょうか?(その2)

何が正しく何が正しくないかを問う時に、
御言葉の指示を次の二つの「公式」に集約することができます。

1)懸案事項について聖書の御言葉の指示がある場合には、
この指示は、すべてのキリスト信仰者をすべての時代にわたって束縛します。
懸案事項について聖書の指示がなく、
他の事柄から直接結論を導きだせない場合には、
キリスト信仰者には自らの判断に従って行動する自由があります。
ただし、その際には、
隣り人のことを考慮に入れて行動しなければなりません。

神様の御言葉はたんに明瞭であるだけではなく実際に十分でもある、
ということがこの公式の論理です。
もしもある事柄に関して御言葉の指示がなければ、
それは些細な事柄なのであり、
そのことで良心を悩ませるべきではありません
(ここで「些細な事柄」とは、
神学用語でadiafora(ギリシア語)
またindifferentia(ラテン語)と呼ばれるもので、
「どちらでもよい事柄」という意味です)。
教会には、神様のお命じになった規定に
勝手に何かを付け加えたり何かを取り除いたりする権利はないのです。

2)マルティン•ルターは、このことを
「キリスト信仰者の自由」という本で、 
相反する二つの文によって簡潔かつ巧みに表現しました。

キリスト信仰者は、皆を支配する自由な主人であり、誰の部下でもない。

キリスト信仰者は、皆に仕える僕であり、各々の人の部下である。