2016年4月8日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 13章1〜7節 世の公的権力が邪悪な場合には?

世の公的権力が邪悪な場合には? 1317

世の公的権力がいつもよいものであるとは限りません。
パウロには本当にこのことが見えないのでしょうか。

国家権力がそれ自身と異なる思想を持つ人々を政治犯として投獄し、
公正とはいえない理由に依って裁判を行い、
さらには残虐に拷問することがしばしばあることを、
彼は知らなかったのでしょうか。

神様を畏れない公的権力がキリスト教の信仰を宣べ伝えることを許可せず、
それどころか逆に、世界各地で様々な時代に
おびただしい数のキリスト信仰者を殺害することになることに、
彼は思い至らなかったのでしょうか。


ここでパウロは自らの立場をそれほど明確には説明していません。
しかし、私たちは
彼が鞭打ちで背中に負った自らの傷跡に言及していることを知っています。 

それぞれの都市における公的権力の代行者たち(為政者たち)が
必ずしもイスラエルの士師(裁き司)の末裔ではなかったことを、
彼は誰から教わるまでもなく十分承知していました。

それから、彼はこの問題の考究を一時中断して、
公的権力が神様の僕であることを指摘します。

教会の初期の時代にパウロや他のキリスト信仰者たちが
暴力的な公的権力を擁護しようとしたことが、
たとえ一度でもあったのかそれともなかったのか、私たちは知りません。

エルサレムの使徒たちは
ユダヤ教の大祭司たちを脅かすために
暗い小道で復讐劇を目論んだりはしませんでした。
不正な裁判による死刑判決に甘んじて従われたイエス様が
彼らの模範だったからです。

イエス様は比類のないやりかたで、
この世の支配者たちから束縛を受けずに自由に生きることができました。

イエス様はこの世の公的権力が
神様を畏れない冷酷なものであることをご存知でした。
そして、彼らのことを批判もなさいました。
しかし、それでもあえて彼らの見かけだおしの権力に屈従なさったのです。
そして、初期のキリスト教会もイエス様と同じような態度をとりました。

公的権力(ユダヤ教の大祭司階級)が
キリスト教信仰の伝道を禁止するにいたった時、
使徒たち(ペテロとヨハネ)は
神様に聴き従うよりもあなたがたに聞き従うほうが
神様の御前に正しいことかどうか、判断してください。
私たちは自分の見たこと聞いたことを語らないではいられないのです
と返答しました(「使徒言行録」41920節より)。

このようなケースを除けば、
初期の教会は決して為政者に対して反乱を起こすことはありませんでした。
これはパウロの場合にももちろんあてはまります。