2015年10月22日木曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 11章1〜24節 残された聖徒たち、そして、異邦人の従順


残された聖徒たち、そして、異邦人の従順 11124

ユダヤ人たちは神様の救いの御業を脇へ押しやり、
自分のせいで神様の怒りを我が身に招いたのです。
「神の選民」という彼らの特別な地位はこの意味で失われてしまいました。
イスラエル民族の地位を事実上代わりに受け継いだのは、
「神のイスラエル」、すなわち教会です
(「ガラテアの信徒への手紙」616節)。
ということは、神様は御民を捨ててしまわれたのでしょうか。

神様が御自分の民を捨てるなどというのは、まったく考えられないことです
(パウロのこの手紙では再び、「とんでもありません」、
という強い否定表現が使われています)。 
エリヤの時代と同じことが、今ここで繰り返されているのです。
その時にも、イスラエル全体が活ける神様を捨てて、
バアルの崇拝者になり果てたように見えました。
エリヤは自分が主にお仕えする最後の一人である、と思い込んでいました。
ところが、 偶像を礼拝しなかった主の御民が
他にも大勢(七千人)残っていたことを彼は聞いたのです。
神様は、偶像を礼拝しなかった一部のイスラエルの御民を
ちゃんと残しておいてくださったのです。
これと同じことがパウロの時代にも起こったのだし、
また現代でも起こっているのです。
たしかに、ユダヤ人の大多数はキリストについての福音を聞きたがりません。
しかし聴こうとする人も中にはいます。
彼らは残された聖徒たちであり、
御民に対して神様が今も変わらずに忠実を貫いている
生きた証拠であるとも言えましょう。

パウロは、神様の救いの御業を捨てたユダヤ人たちを、
切り取られたブドウの木の枝にたとえています。
そうした枝の代わりに、
本来ならぶどう園とは何の関わりもない野生のブドウの木の枝が
接ぎ木されました。
このように神様は、だめになった枝を園から取り払うようにして、
不信仰なユダヤ人たちを取り除いたのです。
神様はイスラエル民族の代わりに異邦人を取り上げて、
彼らの間で福音が広められて行くように計らわれました。