神様は御心のままに人を選抜なさいます 9章6〜29節(その1)
この箇所でパウロがまず一番強調する点は、
神様は人間のはるか上におられる方だ、という認識です。
ここで私たちは、
純粋にユダヤ的な旧約聖書の信仰と、
色あせた希薄な西欧のキリスト教信仰との間の違いを目にします。
自分の抱えている苦しみがたとえどれほど深いものであったとしても、
パウロは王であられる神様の権能の領域に
足を踏み入れようとはしませんでした。
神様は御心のままご自由に、人を救いへと選ぶことができるのです。
この神様のやりかたに対する批判を、パウロは徹底して否定します。
神様は憐れもうとなさる人を憐れみ、
かたくなにしようとする人をかたくなになさるからです。
神様が誰かを選び、また誰かを選ばない、というやりかたについて、
旧約聖書はいくつかの実例を挙げています。
たとえば神様はイサクを選び、イスマエルを選びませんでした。
またヤコブを選んで、エサウを選ばれませんでした。
とりわけエジプトのファラオは、
かたくなになった人間として今日でも通用する代表例です。
神様がファラオをかたくなにされたのは、
イスラエルの奴隷状態からの救済が、
人間の行いによるものではなく神様の御業によるものであることを、
明示するためでした。
このようにして今もなお神様は、
イスラエルの一部を「聖なる民」として選抜なさっています。
神様はおひとりでこの「選抜」を行われました。
すべての人が救いへと招かれているのは、たしかです。
ところが実際に主の御許に来たのは、ごく少数の人々だけでした。
この奥義を前にして、パウロは深く頭を垂れます。