2015年3月4日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 7章14〜25節 この罪深き、聖なる者!(その2)


この罪深き、聖なる者! 71425(その2)

それでは、
「パウロはここでキリスト教徒を意味している」
という見解に基づいて、話を進めて行くことにします。
この見解を支持する聖書的な根拠として、
この世での人生の歩みを終えた後でようやく訪れる罪と死からの解放を
パウロが心から待ち望んでいる、という
「コリントの信徒への第一の手紙」155058 をあげることができます。
聖書的な根拠として、もう一箇所、
「ガラテアの信徒への手紙」517 をあげておきます。

パウロは、このテーマについての話を次のように続けていきます。
律法自体には何の落ち度もありません。
人間の側にこそ問題があるのです。
「私は善を行うことができない」、
とパウロ自身、告白しています。
彼は神様の律法に従うことができず、
彼の心の中には、彼に悪いことを行わせる罪が住みついています。

人間は、自分の行いが悪くて間違っていることを知りつつも、
自分の罪深さに束縛されています。

人間は、善を行うことを望んでも、
それを実行する力に欠けています。

人間は、悪を行うことを望まないとしても、
やはりそう行っています。
なぜなら、
心の中に住みついている悪の方が人間よりも強いからです。

このように、パウロは相反する二つのものの間にいます。
一方で、彼は喜んで神様の律法の教えに賛同し、
それが善いものだと、証します。
他方で、彼の中には悪が住みついており、
彼に悪いことを行わせます。

パウロは、この二律背反の構図から逃れることができません。 
いかにして罪が人間をがんじがらめにして、
神の御国の外側に追いやるものか、
人は自らの身体の感覚によっては察知することができません。