聖めの基としての洗礼 6章1〜4節(その6)
洗礼を埋葬になぞらえるパウロの言葉の背景を探って、
全身を水に浸して洗礼を受ける慣習が
元々あったことを読み取る研究者もいれば、
それとは逆に、
こうした洗礼のやり方は、
パウロの言葉を具体的に視覚化するために
後から実施されるようになったものだ、とする研究者もいます。
Jukka Thurén (ユッカ トゥレン)という
フィンランドの新約聖書学の教授は、
初期の洗礼が全身浸礼であったという慣習は、
当時一般的だった入浴のやり方がその背景にあった、
とする立場を取っています。
当時は、水の中に立っている者の上に、
他の人か自分自身が水を注ぎかけて入浴したからです。
洗礼の際に用いる水の量がその洗礼を質的に規定する決定的な要因である、
とみなされたことは、キリスト教の伝統の中では今まで一度もありません。
それゆえ、
洗礼を実際に授ける際の具体的なやり方について、
争い合うべきではないのです。
一番大事なのは、
洗礼を通して神様がくださる限りない恵みの素晴らしさについて、
はっきりと教えることです。