死について語るイエス様 12章20~36節(その1)
イエス様と話す機会を得ようとするギリシア人たちについて、
「ヨハネによる福音書」は丁寧に細かく報告しています。
彼らは正式に割礼を受けてユダヤ人となった人々ではなく、
いわゆる「神様を畏れる人々」、
つまりユダヤ人にはならないままでイスラエルの神様を敬う異邦人のことです。
この出来事には私たちの想像を超える大切なことがらが隠されています。
ユダヤ人は異邦人とは付き合う習慣がありませんでした。
ユダヤ人は、異邦人と一緒に食事をしなかったし、
必要に迫られないかぎりは異邦人とコンタクトを取ることもありませんでした。
福音書においても、イエス様が異邦人と話をするシーンは稀です
(「マルコによる福音書」7章26節)。
ところが今、数人のギリシア人がイエス様に会うためにやってきたのです。
結局、彼らはイエス様に会うことができなかったのですが、
それは彼らがユダヤ人ではなかったからではありません。
神様の大いなる御計画は今や大変な勢いで進み始めており、
人々が新たにイエス様にコンタクトを取る時間の余裕は、
もはやこの段階ではなくなっていたのです。
それゆえ、異邦人にとってのイエス様の真の重要性は、
イエス様の復活の後になってようやく明らかになったのでした。
これまでも「ヨハネによる福音書」において、
イエス様は「御自分の時」について何度も話してこられました
(2章4節、7章6節)。
今やその「時」が来たのです。
人の子は栄光を受けますが、
この「栄光」はイエス様御自身も驚愕するほどの迫力です。
この栄光とは「一粒の麦の道」です。
それは、あらゆる防御を失って、死ぬことを意味していました。
イエス様のたとえについて多くを語らない「ヨハネによる福音書」においては、
この一粒の麦のたとえは、めずらしいものといえるでしょう。