神様の忠実さ(その2)
「テモテへの第二の手紙」2章8〜13節
「次の言葉は確実である。
「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、
また彼と共に生きるであろう。」」
(「テモテへの第二の手紙」2章11節、口語訳)
「次の言葉は確実である」(ギリシア語で「ピストス・ホ・ロゴス」)は
牧会書簡で何度も用いられている表現です
(「テモテへの第一の手紙」1章15節および3章1節および4章9節、
「テトスへの手紙」3章8節)。
「テモテへの第二の手紙」2章11〜13節には、
現代の私たちには知られていない文書からの引用があります。
これは初期の教会の礼拝あるいは洗礼式の式文から
採られたものなのかもしれません。
「キリスト・イエスとともに死ぬこと」は
人が洗礼を受ける時に起きる出来事です
(「ローマの信徒への手紙」6章3、8節)。
「「もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。
もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。
たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。
彼は自分を偽ることが、できないのである」。」
(「テモテへの第二の手紙」2章12〜13節、口語訳)
洗礼において受洗者は
「キリスト信仰者として生きていく」という召命を受けます。
イエス様は使徒たちが来るべき神様の御国で
イスラエルの十二部族を御自身と共に支配するようになる
と約束なさいました
(「マタイによる福音書」19章28節。
また「ヨハネの黙示録」20章6節も参考になります)。
キリストは御自分を否んだ者たちを最後の裁きで否むことになる、
という聖書の記述(「マタイによる福音書」10章33節)は
大勢のキリスト信仰者を怯えさせました。
しかしここで思い出すべきことがあります。
ペテロは公の場で三度も「自分はイエスを知らない」
と言ってしまったにもかかわらず
(「マタイによる福音書」26章69〜75節)、
後になってから、
使徒のグループにふたたび参加させてもらえたということです
(「ヨハネによる福音書」21章15〜19節。
また「マルコによる福音書」16章7節も参考になります)。
人に最終的な裁きをもたらすのは、
キリストが全人類の罪を帳消しにした救い主であられることを
否定することであり、
キリストの証人としてうまくいかなかった個々の出来事ではありません。
上掲の箇所の終わりの
「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である」
という言葉は、キリストの忠実さを強調しています。
これこそが救いの基になっているものです。
救いは私たち人間の忠実さや不忠実さにではなく、
キリストが成し遂げられたことにのみ依存しているのです。
「彼(すなわち神様)は自分を偽ることが、できないのである」
という点で、
神様が御心により
御自分の全能性に自ら制限を設けておられることに注目しましょう。
御自身の本質のゆえに神様は悪を行うことができません。
全能者なる神様はどのようなこともできるにもかかわらず、
その本質のゆえに、よいことばかり行われるのです。
神様の特質のひとつに忠実さがあります。
「神は人のように偽ることはなく、
また人の子のように悔いることもない。
言ったことで、行わないことがあろうか、
語ったことで、しとげないことがあろうか。」
(「民数記」23章19節、口語訳)
人間たちの不忠実さでさえ、
神様が約束なさったことを別の何かに変えることはできないのです
(「ローマの信徒への手紙」3章3〜4節および9章6〜8節)。