2024年8月15日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」4章1〜5節 偽りの禁欲主義のもたらす危険(その1)

 惑わされてはいけない!

「テモテへの第一の手紙」4章

 

偽りの禁欲主義のもたらす危険(その2)

「テモテへの第一の手紙」4章1〜5節

 

異端教師たちは肉的な快楽を拒否する禁欲主義を要求しました。

これは肉体そのものを殺すべき汚れたものとみなす

グノーシス主義の考え方に通底するものです。

 

しかし肉体を殺すことによって肉の欲望から離れることは

残念ながらうまくいきません。

たとえ今までの肉的な欲望から解放されたとしても、

それに代わって他の肉的な欲望が新たに湧き上がってくるからです。

こうして人は肉体的な死に至るまで

肉を殺そうとしていろいろ試してみるけれども結局はどれもうまくいかない

という堂々巡りをひたすら続けることになります。

次の「コロサイの信徒への手紙」の箇所はこのことについて述べています。

 

「だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、

あるいは祭や新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない。

これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、

いろいろと悪評されてはならない。

彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、

キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。

このかしらから出て、からだ全体は、

節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、

神に育てられて成長していくのである。

もしあなたがたが、キリストと共に死んで世のもろもろの霊力から離れたのなら、

なぜ、なおこの世に生きているもののように、

「さわるな、味わうな、触れるな」などという規定に縛られているのか。

これらは皆、使えば尽きてしまうもの、人間の規定や教によっているものである。

これらのことは、ひとりよがりの礼拝とわざとらしい謙そんと、

からだの苦行とをともなうので、知恵のあるしわざらしく見えるが、

実は、ほしいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立つものではない。」

(「コロサイの信徒への手紙」2章16〜23節、口語訳)。

 

「神の造られたものは、みな良いものであって、

感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。」

(「テモテへの第一の手紙」4章4節、口語訳)

 

神様からの賜物は上手に活用するために与えられているものです。

食べてよいものと食べてはいけないものを恣意的に区別することを

人が救われるための前提条件とするような考え方は

聖書に沿ったものではありません。

例えばアドベンチスト教会の唱導する菜食主義は

聖書が人間に要求しているものではありません(「創世記」9章1〜3節)。

 

上掲の節でパウロは「みな良いもの」とは言っておらず

「神の造られたものは、みな良いもの」であると言っている点に注目しましょう。

この世界には神様が承認なさらない、

神様の敵対者の仕業も存在するからです

(「マタイによる福音書」13章28、38〜40節)。

 

上掲の節でパウロは食べ物についてだけではなく

「神の造られたもの」すべてについて述べていることにも注目しましょう。

神様は私たちのためにさまざまな良い賜物を備えてくださっています

6章17節)。

これらの良い賜物を私たちは自分で愉しむだけではなく

他の人々にも分け与えていくべきなのです

(「コリントの信徒への第一の手紙」10章23〜33節)。

 

上掲の節にある「感謝」という言葉は

ギリシア語で「エウカリスティア」といい、

西暦100年代にはすでに聖餐式を表す言葉として用いられていました。

しかしこの箇所ではこの言葉は

神様へ感謝することや感謝の祈りを捧げることを意味しています

(「マタイによる福音書」14章19節、

「コリントの信徒への第一の手紙」10章30節)。

宗教改革者マルティン・ルターは小教理問答で

食事の際の祈りを奨励していますが、

キリスト信仰者にとってまことにふさわしい作法といえましょう。