2017年3月31日金曜日

ルターと聖餐のパンとぶどう酒(その4)

ルターと聖餐のパンとぶどう酒(その4)

結論

聖餐のパンとぶどう酒の扱い方に関するルターの教えは、
現在のフィンランドのルーテル教会ではすっかり忘れ去られています。
17世紀のスウェーデンのルーテル教会の
アーチビショップ(教会の最高責任者)で、
フィンランドでは今でもその教理問答書が用いられることがある
スヴェビリウス(Olov Svebilius)は、
ローマ・カトリック教会の聖餐論に関する異端的な教えを厳しく拒否しました。

(聖餐式では祝福されたパンとぶどう酒がキリストのからだと血に変わり、
もはやパンでもぶどう酒でもなくなる、
というローマ・カトリック教会の教えのことです。
ここから、聖餐のパンとぶどう酒を礼拝以外のときにも崇拝する
という態度が生じました。
またローマ・カトリック教会には、
聖餐式のときに信徒にパンは配るがぶどう酒は分けないという教義もあります。
翻訳者注記)

 聖餐式の途中でも適量のぶどう酒をその都度取り分けて
祝福することはできるはずです。
そうすれば、
聖餐式の後に祝福されたぶどう酒がたくさん残ってしまうことも
避けられるはずです。
ところが、この小文で取り上げたベッセラーやヴォルフェリヌスは、
「ルター派」と呼ばれる教会の中で
今も数え切れないほど多くの追随者を得ています。
そして、彼らの考えとは反対の、伝統的なルター派の聖餐式についての理解は、
「高教会的な異端である」とか「カトリック的である」というレッテルを
貼られてしまうこともあります。

ルターは聖餐の問題について非常に深刻に考えています。
ですから、この宗教改革者の意見を軽々しく斥けるのは感心できません。
私たちは主の聖餐と聖餐におけるキリストの真の実在に対して、
ずいぶんと曖昧な態度で接しているのではないでしょうか?
ルターの教えに従うことは、私たちにとって難しいことではないはずです。
誰もぶどう酒をいっぺんに祝福する必要はなかろうし、
余りそうなパンも聖餐式の終わりに最後の参加者たちに多めに配ることで
使い切ることもできるでしょう。
ただし、それを受ける人たちが驚かないように配慮しなければなりません。

(聖餐式の途中でも適量のぶどう酒をその都度取り分けて祝福することは
できるはずです。
そうすれば、聖餐式の後に祝福されたぶどう酒がたくさん残ってしまうことも
避けられるはずです。翻訳者注記)

それでもぶどう酒がどうしても残ってしまう場合にも、
いろいろな方法が考えられます。
聖餐式の後で(ラテン語でpost cenamと言います)、
残ったぶどう酒をすっかり飲み干すのもひとつのやり方だし、
それを教会の土地に運んでいくことや、
教会の建物の礎石に注ぎかけることも
ルターの指示した道の方向に従おうとする試みであると言えましょう。

「聖餐式の施行者たちはこのようなことを行っている」と知った信徒が、
彼らのことをたとえばカトリック的である
とみなすことはたしかにあり得るでしょう。
それを避けるために、信徒が誰も気付かないようなやり方でそれを行うことも
考えられるでしょう。
しかし一方では、これほど重要で実践的な問題に関して、
「主イエス・キリストは祝福されたパンとぶどう酒の中に真に存在しておられる」
という教えを信徒たちがきちんと受けないまま放置されるのも大きな問題である、
と私は思います。