2016年10月12日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 15章14〜19節 パウロはあまりに革新的なことを書きすぎたのでしょうか?

パウロはあまりに革新的なことを書きすぎたのでしょうか? 151419


パウロは手紙を締めくくる用意を始めます。
彼はまず信仰による義について話し、
それからキリスト信仰者の生き方について話しました。
彼はこれら二つのテーマについて、
彼らしい激しさと熱意を込めて書き進めて来ました。
この情熱は「ローマの信徒への手紙」の中に明瞭にあらわれています。
自分のこの熱心さが誰のことも傷つけはしなかったか、
彼は確かめようとしています。
ローマの信徒たちの教会がまったくだめな状態なので、
そのためにわざわざ熱意を込めて手紙を書かなければならなかった、
ということを彼は言いたいわけではありません。
パウロは、ローマの信徒たちが
互いに助言し合っているあり方を親切に礼儀正しく認めています。
それでも、
幸いなことにパウロは激しい内容を含んでいることを自覚しつつも、
この「ローマの信徒への手紙」を恥じたりはしていません。

パウロはまた自分に委ねられた使徒の職務のことも恥じません。
彼はまさにこの職務のゆえに多くの戦いに巻き込まれたにもかかわらずです。
彼は「祭司の役を勤める」(16節)という表現さえも躊躇せずに使用しています。
この表現は新約聖書では、
キリストを除いては、どの教会の働き人についても使われていないものです。
普通の他の働き人とは、
信徒の群れのために立てられた牧師、奉仕者、教会の管理者などのことです。
それに対して、
パウロは「異邦人たちの使徒」という自分の職務を
祭司の職務」であると位置づけています。
彼は福音のために奉仕してきました。
その目的は、異邦の民が、
神様に認めていただけるように聖霊様によって聖とされた捧げもの
となれるようにすることにありました。

私たち異邦人(非ユダヤ人)は、
この偉大な「異邦人たちの使徒」の働きが
実際にも犠牲を伴う奉仕であったことを喜んで認めます。
神様御自身が彼を用いられたのであり、
彼によって、異邦人たちを
キリストの贖いの血のゆえに御自分の民として受け入れてくださったのです。
自分たちの使徒であるパウロとその指示に今でも素直に従う時に、
私たちは正しいことを行っているのです。