互いに配慮し合うようになること 14章13〜23節(その1)
神様の大いなる裁きの日を待ちながら、
私たちは他の人々を裁くことに熱中するべきではありません。
むしろ、どうすれば互いを信仰的に躓かせないように生きて行けるか、
ということに関心を集中するべきなのです。
まさにこのことに私たちが興味を向けるように、パウロは促しています。
イエス様は、どのような食べ物もすべてそれ自体は清いものである、
と宣言なさいました(「マルコによる福音書」7章14〜19節)。
それとまったく同様に、
いかなるものもそれ自体汚れているわけではない、とパウロは言っています。
ここで、いかなるものもそれ自体は悪ではない、
と言われているのではないことに注意する必要があります。
モーセの律法が食べ物に関して設けた規定のように、
いかなるものもそれ自体は「汚れている」わけではない、
とパウロは言っているのです。
彼は、これらの問題に関して裁きを下す高い立場にあるものとして、
人間の良心と相互愛とを挙げています。
パウロによれば、人は各自、自己の良心に従うべきです。
良心が警告を発していることをあえて行うのは間違いです。
良心に反することを行うのは、
無垢この上ないと思われることでさえも罪となります。
人は各自、
自分の感じることを無視してまで他の人の例に倣う真似はやめて、
自己に課せられた信仰の戦いをしっかり戦い抜いていくべきです。
たとえば、他の人たちの飲酒の習慣は、
もしもそれに従った場合に良心の呵責を感じる場合には、
私たちにはまったく模範にはなりません。
良心の声を沈黙させてはいけません。
そのようなことをすると、本当にすっかり沈黙してしまうこともあるからです。