第6回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」6章
この章でパウロは、罪の赦しと、賜物としていただける義について、
多くの言葉を費やしました。
今ここで彼は、
「人は好き勝手にしたいことをやってもかまわない」、
という誤解が生じるかもしれないことを想定して、
慎重に話を進めて行きます。
キリストに属する者となるために洗礼を受け、罪を赦された人は、
もはや罪の中で生活するべきではなく、
むしろ罪と戦っていかなければならないことを、パウロは強調します。
1)聖なる洗礼は、私たちのために神様が行ってくださった御業です。
私たちは、その意味をちゃんと理解した上で、
洗礼の中に避けどころを求めることができているでしょうか。
「ローマの信徒への手紙」6章1〜7節をもう一度読んでください。
信仰生活の中で、どのような時にあなたは、
洗礼の与えてくれる支えを特に必要としましたか。
2)パウロがここで洗礼の意味について語るのは、
キリスト信仰者が好き勝手に生きていてはいけないことを、
思い起こさせるためでした。
神様が人と結んでくださった洗礼という契約は、
教会の礼拝にほとんど参加しないキリスト教徒にとっては、
どのような意味を持っていますか。
また、罪と戦う術を学ぶためにはどうすればよいのでしょうか。
3)洗礼が完全に神様の恵みの御業であることを全面に押し出すと、
人は欲望の赴くまま自堕落に生きることになりはしまいか、
と危惧する人たちがいます。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
この危惧に対して、キリスト信仰者として、
私たちはどのように答えることができるでしょうか。