2007年11月8日木曜日

神様を畏れ、また愛しましょう。

今回のテーマは、「神様」についてです。


ヤリ・ランキネン

神様は、畏れるべき、また、愛するべきお方です。


これから神様について話しましょう。神様はどのようなお方でしょうか。「神様を知る」とはどういうことでしょうか。神様がどのようなお方であるか、一体どこから知ることができるのでしょうか。

「神は確かに存在するだろう。だけど、神について(少なくとも確実に)知ることはできない。だから、こういうことは深く考えないほうがよい。」
人々が信仰にかかわることがらに接するときのごく一般の態度はこのようなものだと、私は思います。

こうした考え方はある点で真実をついています。確かに、「神様を知る」ようになるための能力などは、人間である私たちの内にはありません。私は、自分が通った堅信キャンプで学んだことについて、今でもいくつかのことを覚えています。そのひとつは、「神様は隠されている」という教えです。これは、「神様は私たちの及びもしないところにおられる」ことを意味しています。また、私たちが零下の冬の夜に星空を見上げて、「神様は存在する。だけど、神様に直接会うことはできないし、見ることもできないし、考えの中で把握することもできない」と実感することでもあります。
人間というものは、神様について、あれこれ想像をめぐらすものです。こういうことが人間は得意なのです。この世界はさまざまな宗教や宗教的な考え方で充満しています。しかし、神様についての話は、それが「私はこう考えている」とか、「ある偉大な思想家はこう言った」とかいう類のものであるかぎり、たんなる推測にすぎません。見られたこともなく知られてもいないことについて話しているに過ぎないのです。そうした推測の中には、正しい考え方に近いものが含まれている場合もあるでしょうが、多くの点では神様について見当違いなことが言われているものです。本屋から「偉大な思想家たち」などという本を買い込んで、そこから神様についての思索を探す人は、実は徒労なことをしています。そうする人は多いですが、このやり方によっては、神様を知るようにはなりません。

「神様は隠されている」というのは真実ですが、それと同様に真実なのは、「神様を知ることができる」ということです。「神様は私を愛しておられるか、私を裁かれるか、私について興味をもっておられるか」、本当に知ることができるほど、私たちは神様をよく知ることができるのです。また、人と神様との間には「私は神様を知っており、また、私は神様のものだ」と言えるような親密な関係があるのです。なぜそのようなことがありうるのでしょうか。答えは神様の御言葉にあります。神様は、私たちの視線や考えが及ばないところから、御言葉を送ってくださっているのです。神様は御言葉を通して話し始め、御自分について語り、隠された真のお姿を私たちに明らかにしてくださいます。

このように神様はなさいました。神様は御言葉を私たちには見えないところから送られました。それは、ふたつのことを意味しています。

まず第一に、神様は聖書という書物を与えてくださいました。聖書は神様の御言葉です。クリスチャンはいつの時代もこのように信じてきましたし、私たちも同じように信じています。人から「幼稚だ」とか「時代遅れだ」と言われてもかまいません。神様はある人たちを選び、彼らに「神様が御自身について世界のすべての人たちに対して言われたいことを書き取らせる」という使命をお与えになりました。聖書は、「神様がさまざまな状況で何をなさったか」、「神様は何をお命じになったか」、「どのように神様は愛されたか」、「何を神様は裁かれたか」、「神様の選ばれた男たちや女たちは神様についてどんなことを教えたか」、について語っています。これらすべてのことは、「神様は、私たちが神様のことを知るようになるために、御自分を私たちにあきらかになさっている」ということに他なりません。「神様を知る」能力がない私たちに対し、聖書の中で話しているのは、神様御自身なのです。そして神様は御自分のことをよくご存知です。

第二に、「神様が御言葉を送られた」ということは、「神様御自身が御言葉を通してこの世に来られた」ということを意味しています。それは、イエス様がこの世に来られた時に実現しました。ヨハネによる福音書には、「イエス様は神様の御言葉であり、神様御自身です」と言われています(1章)。それは、「目に見えない隠された神様が、どこか遠くから御子の中に見えるようになられ、人々の只中に来てくださった」ということを意味しています。あるとき、十二弟子のひとりフィリポは、彼らが父なる神様を見ることができるよう、イエス様にお願いしました。イエス様は何とお答えになりましたか。
「フィリポよ、あなたは私を知らないのですか。私はあなたがたとこんなに長い間一緒にいたというのに。私を見た者は、お父様を見たのです。」(ヨハネによる福音書14章9節)
イエス様を見なさい。そうすれば、あなたは、他の方法では見ることができないお方を見ます。イエス様をより深く知るように学びつづけなさい。そうすれば、あなたは唯一の真の神様を知ります。どのようにイエス様が愛してくださったか、たずねなさい。そうすれば、あなたは、どのように神様が愛してくださっているか、知ります。イエス様はあることがらや人々をお裁きになられたかどうか、考えなさい。そうすれば、神様がお裁きになるかどうか、あなたは知ります。イエス様は誰に関心をもっておられたか、考えなさい。そうすれば、神様があなたに関心をおもちかどうか、あなたは知ります。

再び、聖書に戻りましょう。聖書は私たちが「イエス様を知る」ようになるように教えてくれます。聖書全体は、まさにイエス様について話しており、私たちがイエス様を知るようになることを目指して書かれています。このことはすでに旧約聖書についてもあてはまります。聖書から見出されるイエス様のみが、真のイエス様です。このイエス様の中に、神様は御自分をあきらかに示されたのでした。

私は単純な次のことを強調したいと思います。聖書を通して私たちは「神様を知る」ことを学びます。私たちが神様を知るためには、聖書以外の他の手段はありません。自然の中を散策しても、思索を凝らしても、もしもそれらが神様の御言葉に結びつかなければ、何の助けにもなりません。神様は御言葉の中で話しておられるのです。ところが、私たちクリスチャンの間でも聖書はあまり読まれていません。聖書を教え学ぶ機会も少ないです。聖書が語っているメッセージも無視されています。聖書は本棚でほこりをかぶったままです。「聖書など気に留める必要などない」と言う人たちもたくさんいます。「聖書は、人々が神についての経験を語っている本であって、神について書かれている他の書物よりも特別に価値があるわけではない」と言うのです。「私は、聖書が語っている神とは別の神を信じている」という人もいます。
上に述べたケースは、「神様は私たちに御自分について語ろうとしてくださっているのに、私たちは耳をふさぎ、神様が話しておられることを気にも留めない」という事実を示しています。もしも私たちがこうした態度を取るならば、私たちは「神様を知る」ことを学ぶようにはなりません。神様についてあれこれ思いを巡らすことはできますが、それはたんなる推測にすぎません。

あなたは、多くの人がするのとは違う態度を取りなさい。聖書を読みなさい。聖書が神様について何を言っているか、注意深く聞きなさい。そして、聖書が言っていることを、信じなさい。

聖書は神様の御言葉です。それは、「聖書は私たちに神様について信頼できる知識を語っている」ということを意味しているだけではありません。聖書はそれよりもさらに不思議な素晴らしさに満ちています。すなわち、「神様は、聖書という「御言葉」の中におられる」ということです。あなたが聖書を読んだり聞いたりするときに、また聖書について教えられたりするときに、神様はあなたのもとに来てくださるのです。御言葉の中で、神様はあなたに話しかけ、あなたが神様を知るようになるように教えてくださいます。あなたは、神様の御言葉とじっくり付き合いなさい。そうすれば、あなたは神様を自分のもとにお迎えできます。神様はあなたに教えてくださいます。こうして、あなたは、「私は神様を知っている」と言うことができるようになります。

「神様が聖書の中で話しておられ、聖書は私たちが神様を知るようになるように教えていることを証明してみなさい」と、私たち牧師は要求されることがあります。私たちは何と答えたらよいでしょうか。私たちはそれを証明することはできません。もちろん一方では、「聖書は神様の御言葉ではない」ということも証明できるものではありません。私たちは、「反論が消え、皆が聖書を信じるようになる」ような論拠を挙げることはできません。にもかかわらず、納得の行く根拠があります。すなわち、イエス様が神様の御子であるかどうか、疑う者たちに対して、イエス様はこのように言われました。
「神様の御心を行おうと思う者であれば、だれでも、私の語っているこの教えが神様からのものか、それとも、私自身から出たものか、わかるでしょう。」(ヨハネによる福音書7章17節)
同じことがここでも言えます。もしもあなたが、聖書の教えが神様からのものかそうではないか、本当にはっきり知りたいと思いながら、聖書を読みまた聞くならば、聖書自体が「聖書では神様が話されている」ことを、あなたに納得させます。聖書の御言葉の中で神様御自身が働きかけてくださり、「聖書は神様の御言葉である」ことを、私たちに確信させてくださいます。聖書のことを疑っている者に対してこう質問してごらんなさい。
「あなたはこの書物を読む勇気がありますか。神様はこの書物の中であなたに御自分について啓示しておられる、とあなたも確信するようになるかもしれませんよ。」
実際こうしたことがある映画監督の上に起こったのでした。その人はイエス様について映画を撮りました。この仕事に取り掛かったときに、その監督は聖書に対して非常に深い疑いを抱いていました。映画のためにその人は聖書をたくさん読まなければなりませんでした。映画が完成する前に、神様はその人の中に「聖書というこの書物では、神様が話しておられる」ことを信じる信仰を生み出してくださったのでした。

これらのことは大切なことなのでしょうか。「神様が私を愛してくださっているか」、「神様は私に関心をもっておられるか」について知るのは、大切なのでしょうか。そう、大切なのです。実は、「神様を知ること」よりも大切なことは、他には何もないのです。それが一番大切である理由は、二つあります。

まず第一に、人は「神様のかたち」として創造されています。それは、「もともと人は、神様との関係が正常な状態で生きていくように創られている」という意味です。もしも人が神様を知らないのなら、人と神様との関係は正常ではないのです。もしも人が本来の生き方に反して生活する場合には、そこからさまざまな悪が生じてきます。おそらく人生がなんとなくむなしく感じられることでしょう。あるいは、心の中に説明しがたい不安があって、外国旅行をしたり、前よりも格好よい車を購入することで、内心を鎮めようとする人もいるかもしれません。「人の心は、神様の中に平安を見出すまでは、平安がありません」と、教会教父アウグスティヌスはかつて語りました。これは今でも本当です。「平安のなさが多くの現代人を苦しめているが、それは、人と神様との関係が正常ではないからだ」と私は確信しています。残念ながら自分の心に平和を、それがちゃんと見つかるところからさがす人はごくわずかです。この平和は「神様を知る」ことから得られます。信仰者でさえ、ともすると、神様との関係を軽く見て、神様以外のところからより多くのものをさがしもとめて、それで自分の人生を満たすようになりがちです。こうしたことが起きると、その人の人生の中身は消えうせてしまいます。

もうひとつのさらに大切な理由は、「この世での人生のあとで、永遠の世がはじまる」ということです。「そのときに私がどうなるか」を決めるのは、「私と神様の間の関係がちゃんとあるか、そしてそれは正常か」ということのみです。その関係が「正常」であるのは、私が神様を知っている場合だけです。もしも関係が正常ならば、神様は私に天国のドアを開けてくださいます。もしも正常でなければ、私は神様から際限なく隔てられてしまいます。「滅び」に落ち込むことほど、ひどいことはありません。それゆえ、「神様を知る」こと以上に大切なことは何もないのです。

それでは、神様とはどのようなお方なのでしょうか。

私たちは神様についてすべてを知ったり理解したりすることはできません。ときには神様は私たちを驚かせるようなやり方で働きかけられたり、私たちを傷つけるようなことさえなさいます。聖書を読んだり聞いたりしてきた人にとってさえ、考えもしなかったような神様の一面があきらかになることがあります。神様についてのさまざまな質問があり、私たちはそれらについて答えを求めていますが、神様は答えてくださらないことがあります。これらのことは、「私たちは神様についてすべてを把握してはいない」ことを意味しています。しかし、少なくとも私たちが知る必要があることがらについては、神様は、誰にとっても曖昧さが残らないかたちで、聖書の中で語っておられます。

神様はどのようなお方ですか。神様は本当に偉大なお方です。神様は力や知恵や栄光に満ちておられます。神様は全世界(全宇宙)を支配しておられます。詩篇は神様について、「夜空の星星よりもはるかに大いなるお方である」と語っています。神様はこういうお方でなければならなかったのです。そうでなければ、神様はこれらすべてのものを創造することはおできにならなかったでしょうし、これらすべてのものを維持することもおできにはならなかったことでしょう。その御手の内にすべてを、つまりこの全世界を、掌握しておられる神様は、「大いなる神様」です。聖書は、「神様が大いなるお方である」と語る一方で、「この大いなる神様は、宇宙のひとつの小さな惑星の中の、小さな人間ひとりひとりのことを気にかけておられる」ことも教えてくれます。神様にとって、「このひとりの人に何が起きるか」ということは大切な意味をもっています。神様はひとりひとりのことがらについて関心をもっておられ、配慮してくださっているのです。イエス様は「神様はこのようなお方である」と示してくださっています。イエス様はひとりの人に気がついてくださいました。イエス様は立ち止まって、ひとりの人に語りかけられました。回りには何百何千という人がいたにもかかわらず。まさにこのように神様はなさいます。あなたは大いなる神様にとって非常に大切で、神様はあなたのことに深い関心をもっておられるので、神様はあなたのもとに来られ、あなたの前に立ち止まり、あなたに話しかけられ、あなたのことやあなたの嘆きを聞き、「あなたと共にいたい」と望んでおられます。

おそらくこのことを信じるのは簡単ではないでしょう。この世界には何億人もの人々がいるからです。しかし、信じようと信じまいと、そういうことなのです。大いなる神様にはこれは可能なのです。「神様は私のことを心に留めてくださっている」というのは、非常にすばらしいことです。私のことを神様は知ってくださっています。一方で、それは重大な意味をもっています。神様は私のことを、私がどこで何をしていようとも見ておられるのです。どうやっても神様から逃げることはできません。大きな群衆の中に隠れることはできません。そこからでも神様は私を見つけ出されるからです。

イザヤ書の6章で預言者は自分のすごい経験について語っています。彼は神様に出会ったのです。神様の御前でイザヤは、彼と神様の間にある深刻な矛盾に気が付きました。彼は罪人であり、神様は清く聖なるお方です。このことに気が付いたイザヤは、「何ということだ。私は滅びてしまう。」と叫びました。これが神様です。神様は聖なるお方なのです。聖書の中のある女性を覚えている人もいるかもしれません(ヨハネによる福音書8章)。彼女は結婚を破る姦淫の罪で捕まり、イエス様の前に引きずり出されたのでした。彼女は「自分が今聖なる神様の御前にいること」と「自分の生き方は神様に裁かれて当然であること」を知りました。女性は地に倒れ、裁きが来るのを待ちました。ここで女性の態度はまったく正しかったのです。神様は罪を、心から深く憎んでおられます。神様は女性が行った罪を憎まれました。同じように、神様は、たとえばあなたが職場の同僚に何か悪いことを言ったり、隣人に対して冷たかったり、税金の申告を不正直に行ったりすることを憎まれます。神様は罪を決して是認なさいません。それがどんなに小さな罪であったとしてもです。神様は聖なるお方なので、罪に対しては罰を要求されます。あなたは(私と同様)罪を犯したのです。だから、あなたは(私と同様)神様の裁きを受けるのが当然なのです。

神様はこういうお方です。神様は御自分の聖さを放棄なさいません。

神様についてもうひとつ語るべきことがあります。イエス様の御前に引きずり出されたあの姦淫の現場を押さえられた女性は、自分が受けるべき処罰を受けましたか。いいえ。イエス様は彼女に対して、当然接するべきであるのとは違うやり方で、接されました。イエス様は彼女をお裁きにはなりませんでした。そうするのが当然であったにもかかわらず。イエス様は彼女を愛して、その罪を赦されました。イエス様にはこのようになさる権能がありました。なぜなら、イエス様は、十字架で、すべての人をそのすべての罪ののろいから解放してくださったからです。このように神様はあなたに対しても接してくださっています。あなたは裁きを受けるのが当然の立場にありながら、神様はあなたを裁きません。神様は憐れんでくださいます。今神様はこのようにしてくださっています。いつか神様は裁き主となられますが、今はまだ「恵みの時」です。今は神様はすべての罪を赦して、永遠の命を与えてくださいます。

神様は、御自分の御子の死によって、あらゆる罪に対して向けられる御自分の怒りから、あなたを解放してくださいました。それゆえ、神様はあなたを愛してくださっているのです。たとえあなたが罪人であってもです。神様はあなたをたくさん愛してくださり、あなたに配慮してくださり、あなたを御自分のみもと、天国へと導きたいと望んでおられます。

「神様を畏れること」とは何でしょうか。それは神様が大いなるお方であることがわかることです。神様はあまりにも偉大なので、人は神様に対して接するときには、自分と同じ立場にあるような友達に対するのとは異なる態度をとる必要があります。私は、大いなる神様の傍らでは、ごくちっぽけな存在に過ぎません。私自身の意見などは、神様の御言葉とは比べることができないほど軽いものです。このことを理解する者は、神様を敬って、神様が何を言われているか正確に聞き取り、神様に従いたいと望みます。

「神様を畏れること」とはまた、「私は大いなる神様に完全に依存している」ということを理解することでもあります。私の全人生は、何を神様が私に与えてくださるか、にかかっています。たとえば、神様は私に日々のパン(食事)や健康や「明日」という日を与えてくださるかどうか。私が救われるかどうかは、完全に、神様は私に対して憐れみ深いかどうか、にかかっています。それゆえ、私には神様を怒らせるような「勇気」はありません。もしも神様を怒らせるなら、神様は私を捨て去られます。私には確実にありとあらゆるかたちで悪いことが起こるでしょう。神様と御言葉を無視する態度を、神様は憎んでおられます。私には神様とその御心を無視して生きる勇気はありません。なぜなら、そうした生き方は聖なる神様を怒らせるからです。この「畏れ」が、「神様を畏れること」と呼ばれるものです。

それでは、「神様を愛すること」とは、何でしょうか。それは、神様は私に対して、信じられないほどよいお方であることがわかることです。神様は私の世話をしてくださいます。私は神様から裁きを受けるのが当然なのに、神様は私を裁かれません。私は滅ぶのが当たり前なのに、神様は私に永遠の命を与えてくださいます。これを理解することが、私の中で、私に対して信じがたいほどによいお方である神様への愛を生み出します。もしも誰かを愛しているなら、その人に喜ばれるように振舞いたくなるものです。その人のそばで生きて行きたいものです。その人に仕えたいものです。もしも神様を愛しているなら、神様に対しても同じようにするものです。

このように、私たちには神様に対してふたつの(正常な)関係があります。ひとつは「神様を畏れること」、すなわち、神様が大いなるお方であることを理解して、自分が完全に神様に依存しており、それゆえ、神様を怒らせる勇気などはもてないこと。もうひとつは「神様を愛すること」、すなわち、神様はなんとすばらしいお方か、理解すること。これらのうちどちらも忘れてはいけません。さもないと、神様について大切な何かを忘れることになり、神様との関係は、おかしくなってしまいます。