2025年3月3日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章11〜16節 避けるべきことと追い求めるべきこと(その1)

避けるべきことと追い求めるべきこと(その1

「テモテへの第一の手紙」6章11〜16節

 

「しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。

そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」6章11節、口語訳)

 

信仰生活では避けなければならない事柄もあるし、

追い求めなければならない事柄もあります。

悪い事柄を捨て去るだけでは十分ではありません。

悪い事柄が人間の生活をふたたび左右するようにならないために

良い事柄によってそれを満たすべきなのです

(「マタイによる福音書」12章43〜45節も参考になります)。

 

神の人」とはここではテモテのことを指しています

(6章20節と比べてください)。

神の人」は例えば旧約聖書の次の人物たちについて用いられた尊称です。

 

モーセ

(「申命記」33章1節、

「ヨシュア記」14章6節、

「歴代志上」23章14〜15節、

「詩篇」90篇1節)。


サムエル

(「サムエル記上」9章6節)


ダビデ

(「ネヘミヤ記」12章24、36節)


預言者

シマヤ(「列王記上」12章22節)


エリヤ

(「列王記上」17章18節、

「列王記下」1章9節)


エリシャ

(「列王記下」4章7節)


レカブびとハナン

(「エレミヤ書」35章4節)


名前のわからない三人の預言者たち

(「サムエル記上」2章27節、

「列王記上」13章1〜3節、

「歴代志下」25章7節)

 

新約聖書で「神の人」という表現がみられるのは

上掲の節以外では「テモテへの第二の手紙」3章17節だけです。

そこではこの言葉はキリスト信仰者一般を指しています。

 

「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。

あなたは、そのために召され、

多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」

(「テモテへの第一の手紙」6章12節、口語訳)

 

私たち人間がこの世で完全には実現できないような事柄を要求してくる

「キリスト教」のような教えがしばしば見られます。

非の打ちどころのない生き方、完璧な信仰生活などがその例です。

しかし、むしろ私たちは

それ自体としては望ましいそれらの事柄を

この世では十分実現できないことをきちんと自覚しつつ、

いくらかでも実現していくために

主からの招きを受けていると考えるべきなのです。

 

いくら熱心に競争したとしても

ゴールに辿り着けないのであれば意味がありません

(「コリントの信徒への第一の手紙」9章24〜27節、

「ヘブライの信徒への手紙」12章1節。

「ルカによる福音書」13章24節、

「ヘブライの信徒への手紙」10章32節も参考になります)。

 

キリスト教信仰は永遠の命への招きであると言えます

(「使徒言行録」13章46〜48節)。

他の箇所でもパウロは

神様が人々を御国に招いておられるということを強調しています。

救いは神様の御業であり人間の行いではありません

(「ローマの信徒への手紙」8章30節、

「コリントの信徒への第一の手紙」1章9〜10節、

「ガラテアの信徒への手紙」1章6節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章12節)。

 

上掲の節にある「あかし」とは、

人が洗礼を受ける時に告白したキリスト教の信条を指しているか

(「ローマの信徒への手紙」10章9〜10節)、

あるいは(このほうがより真実に近いと思われますが)、

テモテが福音宣教者の職務に任命されて按手を受けた時に

自ら口頭で告白した信条を指している

(「テモテへの第一の手紙」4章14節、

「テモテへの第二の手紙」1章6節)

とも考えることができます。

 

「わたしはすべてのものを生かして下さる神のみまえと、

またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをなさった

キリスト・イエスのみまえで、あなたに命じる。」

(「テモテへの第一の手紙」6章13節、口語訳)

 

「ポンテオ・ピラトの面前で」は使徒信条のものと同じです。

イエス様はポンテオ・ピラトの面前で

御自分がメシアであることをあかしなさいました

(「ヨハネによる福音書」18章33〜37節、19章10〜11節)。

 

2025年2月17日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節 偽りの富と正しい富(その2)

 偽りの富と正しい富(その2)

「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節

 

「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。」

(「テモテへの第一の手紙」6章6節、口語訳)

 

信仰は富の源です。

しかしそれはこの世的な富ではなくて天国的な富の源です。

 

「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。

また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。」

(「テモテへの第一の手紙」6章7節、口語訳)

 

人は何も持たずにこの世に生まれ、

同じく何も持たずにこの世から去っていきます

(「ヨブ記」1章21節)。

死んだ人がこの世にどれだけのものを残したのか考えてみましょう。

その答えは富者も貧者も等しく「全部」です。

この世から去る時には誰も何も携えて行くことはできません

(「詩篇」39篇7節、49篇18節、

「伝道の書」5章14節も参考になります)。

 

「金銭を愛することは、すべての悪の根である。

ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、

多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」

(「テモテへの第一の手紙」6章10節、口語訳)

 

ここで問題視されているのは金銭自体ではなく

金銭欲であることに注意するのが大切です。

金銭は現代社会では必要不可欠な交換手段なので、

金銭との関係をまったくなくすることはできません。

ある神学者が言ったように「この世的な信仰告白」は

「もっと多く!」という標語にまとめることができます。

金銭は麻薬に似たところがあります。

しだいに今までよりも多くの量が欲しくてしかたがなくなり、

しかもそれでも満足できなくなってしまうのです。

金銭の後を追いかけ回すのは塩水を飲み続けることに似ています。

飲めば飲むほど喉の渇きを覚えるようになるのです。

 

聖書には金銭欲で身を滅ぼした人々の例が数多く記されています。

アカンは自身の金銭欲のせいで

イスラエルの民全体に深刻な問題を引き起こしました

(「ヨシュア記」7章)。

イスカリオテのユダは銀貨三十枚の代価として

イエス様を敵に売り渡しました

(「マタイによる福音書」26章14〜16節)。

アナニヤとその妻サッピラは自らの強欲のせいで

神様から死刑の裁きを受けることになりました

(「使徒言行録」5章1〜11節)。

 

上掲の節のはじめの部分

(「金銭を愛することは、すべての悪の根である」)は

翻訳上の問題を含んでいます。

「すべての罪は金銭欲から生じている」とも解釈できそうですが、

パウロ自身はそのようには考えていなかったからです

(「ガラテアの信徒への手紙」5章17〜21節と比べてください)。

むしろ「金銭欲は諸悪の根源である」と訳した方が

パウロの本来の考えに近いでしょう。

 

人はいともたやすく創造主の代わりに被造物を崇拝するようになりやすい

ということを上節は私たちに思い起こさせます。

 

今まで扱ってきた「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節は、

神様の御国では金銭の使用について透明化されるべきである

ということを教えています。

隠し口座などがあってはならないのです。

 

2025年2月14日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節 偽りの富と正しい富(その1)

 偽りの富と正しい富(その1)

「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節

 

6章2節の最後の言葉「あなたは、これらの事を教えかつ勧めなさい。」

は1〜2節に結びつけることもできるし、

3〜10節に結びつけて理解することもできます。


テモテには正しいキリスト教の教義を教会員たちに教える義務がありました

(1〜2節)。

またテモテは偽りの教義に対して沈黙していてはいけないのです(3〜10節)。

 

「もし違ったことを教えて、

わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に

同意しないような者があれば、」

(「テモテへの第一の手紙」6章3節、口語訳)

 

福音はただ一つしかありません(「ガラテアの信徒への手紙」1章6〜9節)。

それゆえ福音について違うことを教える者は異端教師ということになります

(「テモテへの第一の手紙」1章3〜7節、4章1〜5節、6章20〜21節)。

 

正しい教義は福音から出てくるものです。

「私たちの主イエス・キリストの健全な言葉」とは、

福音書やイエス様の特定の御言葉の集まりのことではなく、

福音全体を意味しています。


パウロはこの箇所で彼自身がエフェソで提示したキリスト教の教義のことを

含意しているという説もあります

(「コリントの信徒への第二の手紙」13章3節、

「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章6、12節。

また「ルカによる福音書」10章16節、

「使徒言行録」1章1〜2節なども参考になります)。

 

正しい教義は人々を縛る「足枷」では決してなく、

真摯なキリスト信仰者を罪の圧制の下から自由な信仰生活へと

解放してくれるものです

(「ヨハネによる福音書」8章36節)。

 

「彼は高慢であって、何も知らず、

ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。

そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、

また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、

はてしのないいがみ合いが起るのである。」

(「テモテへの第一の手紙」6章4〜5節、口語訳)

 

偽りの教師たちの特徴としては次の三つを挙げることができます。

 

A)論議と言葉の争いとに病みつきになっていて教会内に分裂を引き起こす

B)かつては正しい信仰をもっていたが真理にそむきそれを捨ててしまった

C)真理よりも金銭を愛してしまった

 

「いがみ合い」を異端への警告と混同するべきではありません。

教会が理想とするべき態度とは、

何でもかんでもすべて認めて受け入れてしまうことではなく、

教会が正しい教義に自らをしっかり繋留することです。

 

宗教は人が裕福になるためのたんなる手段に

いともたやすく成り下がってしまうものです。

アメリカのテレビに登場した多くの説教者たちがその実例です。


パウロの時代のエフェソでは

アルテミスの神殿のミニチュアの模型がよく売れていました。

ところが、エフェソでキリスト教が広がっていくにつれて

その売れ行きが落ち込んでしまったために、

アルテミス崇拝を金稼ぎの手段にしていた者たちは

キリスト教という新たな宗教の伝道活動を妨げようとしたのです

(「使徒言行録」19章23〜41節)。

 

パウロは「エフェソの信徒への手紙」で「貪欲」について警告しています

(「エフェソの信徒への手紙」5章3節)。

異教の宗教性のもたらすこの悪習が

エフェソのキリスト信仰者たちのことをも脅かしていたようです。

 

パウロは教会の援助に頼ることなく

自らの手で生活に必要な収入を稼いでいることを

誇りとしていました

(「使徒言行録」20章32〜35節、

「コリントの信徒への第二の手紙」2章17節、

11章7〜21節、12章13〜18節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章5節)。

 

しかしこのことは誤解も生みました。

「パウロは使徒ではないから生活費を教会から要求する勇気がなかったのだ」

といった言いがかりをつける者たちが出てきたのです

(「コリントの信徒への第二の手紙」11章7節)。

このような非難を受けても

パウロは天幕造りで生計を立てる福音伝道師の生き方を止めませんでした

(「使徒言行録」18章1〜5節)。

2025年1月23日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章1〜2節 奴隷と主人

職務を忠実に果たすことへの奨励

「テモテへの第一の手紙」6章

 

奴隷と主人

「テモテへの第一の手紙」6章1〜2節

 

「くびきの下にある奴隷はすべて、

自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。

それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである。

信者である主人を持っている者たちは、

その主人が兄弟であるというので軽視してはならない。

むしろ、ますます励んで仕えるべきである。

その益を受ける主人は、信者であり愛されている人だからである。

あなたは、これらの事を教えかつ勧めなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」6章1〜2節、口語訳)

 

自分の主人がキリスト信仰者である奴隷たちは

主人も自分も共通の信仰をもっているという理由で

自分を特別扱いしてくれるよう主人に要求するような誘惑に駆られました。

しかしパウロは彼らがむしろ以前よりも熱心に自分の主人たちに仕えるように

と奨励しています。

またキリスト信仰者である奴隷たちは

キリスト信仰者ではない主人たちをも敬わなければなりません。

こうすることによって

奴隷たちは神様についてと自らの信仰について

よい証をすることになるからです。

現代と同じように当時も、教会に属さない人々は

キリスト信仰者たちの生きかたを観察することを通じて

神様について様々なことを理解したつもりになる傾向があります

(「ローマの信徒への手紙」2章24節、

「イザヤ書」52章5節も参考になります)。

 

「くびき」は聖書では下に押しつける重い何かを一般的にあらわしています

(「歴代志下」10章4節、

「イザヤ書」9章3節(口語訳では4節)、47章6節)。

イエス様は御自分に従う者たちに対して

負いやすいくびきと軽い荷を与えることを約束してくださいました

(「マタイによる福音書」11章29〜30節)。

 

上掲の箇所の最後の部分はいろいろな解釈ができます。

例えば

「彼らの益を受ける主人は信仰者であり神様に愛されているからである」とか

「自分が神様に愛されていることを知っているキリスト信仰者である主人は

自分の奴隷に対しても多くの良いことを行うからである」とか

「神様に愛されている信仰者とは

他の人々に良いことを行おうと努める者だけだからである」などという解釈です。

要するにパウロはこの箇所で奴隷の主人たちにも指示を与えている

と考えることもできるのです

(「エフェソの信徒への手紙」6章5〜9節、

「コロサイの信徒への手紙」3章22節〜4章1節も参考になります)。

 

「パウロや最初の頃のキリスト信仰者たちが

奴隷制の廃止を断固とした態度で要求するどころか、

むしろこの制度の存続を容認しているようにさえ見えるのはどうしてなのか」

という問いかけが今までなされてきました

(「コリントの信徒への第一の手紙」7章17〜24節も参考になります)。

 

ローマ帝国にはおよそ五千万人の奴隷がいたと推定されています。

ローマ社会の全体が奴隷制によって支えられ成り立っていたのです。

首都ローマのおよそ百五十万人の住民のうちの七割は奴隷が占めていました。

ですから

奴隷制を突然廃止したならば

ローマ社会全体に非常な混乱が生じたことでしょう。

 

実は奴隷解放は奴隷自身にも

常に良い結果をもたらすものとはかぎりませんでした。

主人たちは年老いた奴隷たちを解放しましたが、

それは彼らを扶養する義務を免れるためでもありました。

解放された奴隷たちはしばしば無一文のまま放り出されたのです。

 

キリスト教の信仰が社会を大きく変えた結果、

奴隷制はその思想的な基盤を失い廃止されていくようになりました。

この点で「ガラテアの信徒への手紙」3章26節に加えて

次の箇所が参考になります。

 

「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、

割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。

キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。」

(「コロサイの信徒への手紙」3章11節、口語訳)

2024年12月17日火曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」5章17〜25節 教会を指導していくための手引き(その2)

 教会を指導していくための手引き(その2)

「テモテへの第一の手紙」5章17〜25節

 

「わたしは、

神とキリスト・イエスと選ばれた御使たちとの前で、

おごそかにあなたに命じる。

これらのことを偏見なしに守り、

何事についても、不公平な仕方をしてはならない。」

(「テモテへの第一の手紙」5章21節、口語訳)

 

テモテは公正でなければなりませんでした。

信仰にかかわる霊的な事柄を指導するときにとりわけ重要なのは公平さです

(「ローマの信徒への手紙」2章11節)。

特定の人々を優遇するという不公平が現代でもしばしば起きているのは

たいへん残念なことです。

 

「軽々しく人に手をおいてはならない。

また、ほかの人の罪に加わってはいけない。

自分をきよく守りなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」5章22節、口語訳)

 

按手を授ける者は按手を受ける者について責任を負います。

按手を受けて教会の職務を委ねられた者が

不適格であることが明らかになった場合、

按手を授けた者が按手を受けた人物の適格性を

あらかじめ十分に吟味しなかったことになるからです(3章10節)。

 

上掲の節は罪の赦しについて述べているという説明もあります。

西暦200年代には

罪の赦しに関連するかたちで按手が行われたことが知られています。

しかしこのようなやりかたが

すでに西暦60年代に用いられていたとは考えられません。

パウロは他の箇所でも

按手を教会の職務への任命に関連付けて述べています

(4章14節、「テモテへの第二の手紙」1章6節)。

 

「(これからは、水ばかりを飲まないで、

胃のため、また、たびたびのいたみを和らげるために、

少量のぶどう酒を用いなさい。)」

(「テモテへの第一の手紙」5章23節、口語訳)

 

この節は酒に酔うことを聖書的に正当化するために

引き合いに出されたこともある箇所です。

この手紙の書かれた当時、

水は腐っていることが多かったのに対して、

ぶどう酒は水よりも保存が効き、薬としても用いられていました。

 

この節の背景には

ノーシス主義的な禁欲主義が関係していたとも考えられます。

グノーシス主義者たちはアルコールの使用を完全に否定していました。

それゆえ、

テモテがまったく酒を飲まなかったことは

グノーシス主義の禁酒の要求へのある程度の迎合と

みなされていたのかもしれません。

 

旧約聖書にもぶどう酒をまったく飲まなかった聖者たちがいました。

ダニエルとその仲間(「ダニエル書」1章12節)、

そしてレカブびと(「エレミヤ書」35章)です。

 

ぶどう酒の使用は

当時のキリスト信仰者たちの間でも意見の分かれた問題であり、

一部の人々にとっては「躓き」にさえなっていました

(「ローマの信徒への手紙」14章21節)。

この問題でのパウロの立場は明瞭でした。

それによると、

私たちキリスト信仰者は飲み食いすることや

それを避けることによっては救われません。

とはいえ、自分の持っている自由を行使することで

「弱いキリスト信仰者たち」をことさら苛立たせてもいけないのです

(「ローマの信徒への手紙」14章22〜23節、

「コリントの信徒への第一の手紙」8章7〜13節、10章23〜33節)。

 

「ある人の罪は明白であって、すぐ裁判にかけられるが、

ほかの人の罪は、あとになってわかって来る。

それと同じく、良いわざもすぐ明らかになり、

そうならない場合でも、隠れていることはあり得ない。」

(「テモテへの第一の手紙」5章24〜25節、口語訳)

 

上掲の箇所はやはり「長老」に関連しているものと思われます。

教会の指導者を選ぶ際には、

その人物についての目に見える部分は10%にすぎず

残りの90%は水面下にあるという視点が大切になります。

外面的には完璧に見える人物に薄暗い秘密が隠されていることもあります。

しかしその一方では、

ある人物の賜物は他の人々の賜物とは異なって

人の目に見える形では容易に現れない場合もあります。

 

神様はすべてを見通されています。

何事であれ神様から隠しておくことはできません。

たとえ私たち人間がまちがった評価を下したとしても、

私たちの行いが良いか悪いかにはかかわりなく

神様は常に正しいお方なのです。

2024年12月12日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」5章17〜25節 教会を指導していくための手引き(その1)

 教会を指導していくための手引き

「テモテへの第一の手紙」5章17〜25節(その1)

 

「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、

二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。」

(「テモテへの第一の手紙」5章17節、口語訳)

 

教会の長老たちの大多数は「平信徒」でした。

彼らはそれぞれ自分の仕事をこなしつつ教会の指導にもあたっていたのです。

これは海外宣教の多くの場所で今日でもよく見受ける光景です。


その一方で、福音の宣教に専念できる長老たちもいましたが

(「使徒言行録」18章5節)、

教会は彼らの生活費を賄わなければなりませんでした。

 

「教会を指導する長老」と「教えに専念する長老」という

二種類の長老が存在したことを上掲の節は示唆している

と解釈されることが時折あります。


確実に言えるのは、

長老が同時に指導者でもあり教師でもあったということです。

おそらくこの節でパウロは

宣教者としてフルタイムで活動している長老たちのことを指しているのでしょう。

 

この節は一般的に年寄りの男性たち

(やもめと同様に(5章3節)支援を必要としている教会員たち)

について述べているという説明もなされています。


このように考える場合には

「二倍の尊敬」とは

具体的には「二倍の支援」を意味していることになるでしょう。


しかしこの解釈は

長老たちが教会職に就く者たちに按手を施すという

5章22節の記述と調和しません

(「コリントの信徒への第一の手紙」9章14節、

「ガラテアの信徒への手紙」6章6節も参考になります)。

 

とはいえこの「二倍の尊敬」には経済的な支援も含まれていたのはたしかです。

 

「聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」

また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。」

(「テモテへの第一の手紙」5章18節、口語訳)

 

この節に引用されている聖句は

「申命記」25章4節および「ルカによる福音書」10章7節にある

イエス様の言葉に由来しています。


「テモテへの第一の手紙」が書かれた当時、

ルカはおそらく福音書をまだ書いてはいませんでした。

一連の福音書が書かれる以前に、

イエス様の教えとイエス様にまつわる出来事の数々とが

文書としてまとめられたものがすでに存在していたのです

(「ルカによる福音書」1章1〜4節も参考になります)。

 

パウロは「申命記」の同じ箇所を

「コリントの信徒への第一の手紙」9章9節でも引用しています。

 

「長老に対する訴訟は、

ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。」

(「テモテへの第一の手紙」5章19節、口語訳)

 

教会の指導者たちは周囲から

とりわけ厳しい目で見られたり嫉妬されたりしました。

その結果、彼らはいわれのない非難を受けることもありました。


指導者たちに対する訴訟では

彼らをたんに非難するだけでは不十分で、

二人か三人の証人が必要とされました。

モーセの律法も同じことを特に重大犯罪の案件に関して要求しています

(「申命記」17章6節、19章15節。

「コリントの信徒への第二の手紙」13章1節も参考になります)。

 

「罪を犯した者に対しては、

ほかの人々も恐れをいだくに至るために、

すべての人の前でその罪をとがむべきである。」

(「テモテへの第一の手紙」5章20節、口語訳)

 

この節は教会の指導者を叱責するケースについて述べているのでしょう。

叱責は長老たちの面前で行われました。

罪が公然のものである場合には、

れに対する叱責も公然となされなければなりませんでした

(「マタイによる福音書」18章15〜17節、

「ガラテアの信徒への手紙」2章11〜14節)。

2024年11月25日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」5章9〜16節 やもめたちの教会での職務

 やもめたちの教会での職務

「テモテへの第一の手紙」5章9〜16節

 

60歳以上のやもめは再婚することをあきらめて(5章9節)

教会への奉仕に専念することができました。

彼女たちはそのために「初めの誓い」を行いました(5章12節)。

 

「やもめ」の職務内容には

祈り(5章5節)、奉仕(5章10節)、家庭訪問(5章13節)

が含まれていました。


西暦200年代にはやもめの職制にかかわる問題が起きてきました。

彼女たちの一部は教会の霊的な指導者の地位を欲するようになったのです。

それとともにやもめの職制はなくなりました。


教会教父たちはやもめの職制についての記述を残しています。

この職制は現代のディアコニア職に該当します

(「使徒言行録」9章36〜41節も参考になります)。

 

後に「やもめ」とみなされる年齢制限は50歳にまで引き下げられました

(5章9節と比較しましょう)。

 

パウロは5章14節で

「若いやもめは結婚して子を産み、家をおさめ、

そして、反対者にそしられるすきを作らないようにしてほしい」

と述べています(3章2、12節も参考になります)。

ですから「ひとりの夫の妻であった者」(5章9節)とは

「夫に対して妻として忠実であり続けたやもめ」という意味になるでしょう。

 

客人の足を洗うのは僕(しもべ)の仕事でした

(5章10節。

「ヨハネによる福音書」13章4〜5節や

「ルカによる福音書」7章44節も参考になります)。

この奉仕のありかたは

自らを低める態度を他の人々にも要求するものでした。

 

若いやもめの怠惰さや暇つぶし(5章13節)は

いともたやすく他の悪徳とも結びついていきます。

 

「彼女たちのうちには、サタンのあとを追って道を踏みはずした者もある。」

(「テモテへの第一の手紙」5章15節、口語訳)

 

この節はグノーシス主義に転向した若いやもめたちを示唆している

と考えることもできます。

サタンのあとを追うことは異端に陥ることを意味しています。

 

「女の信者が家にやもめを持っている場合には、

自分でそのやもめの世話をしてあげなさい。

教会のやっかいになってはいけない。

教会は、真にたよりのないやもめの世話をしなければならない。」

(「テモテへの第一の手紙」5章16節、口語訳)

 

教会によるやもめの支援は

本当に支援が必要なやもめたちだけのためであることを

この節は再度強調しています(5章3、8節)。

 

パウロの教えは現代社会においても重要となる視点を提供しています。

それは困窮の度合いに応じて支援の量も変えていくべきである

という考えかたです。

全員に等しく分配される社会福祉の経済的な利益は

受け取る側の人々の間に存在する経済力の格差を

是正するものではなくなっています。

社会福祉の分配を適切に管理しないかぎり、

社会福祉を本当に必要としている人が受けるはずの利益を

それ以外の人々が濫用するのを助長しかねません。


パウロはキリスト信仰者の心の中にも

強欲で自己中心的な「古い人」が巣食っていることをよく知っていました。

それゆえ教会は支援の分配を監視しなければならないのです。

 

社会的弱者(やもめなど)の親戚たちは

「社会的弱者の世話は社会がするべきだ」という考えかたを

都合よく引き合いに出して自らの責任を回避するべきではありません。