2016年9月28日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 15章1〜6節 キリストの模範(その2)

キリストの模範 1516節(その2)

今回ついにパウロは最終的な根拠を提示します。
それは、
キリストもまた自らを喜ばせるような生き方をなさらなかった、
というものです。

まさにキリストは
弱い者たちのために御自分の栄光と自由をお捨てになったのです。
それゆえ、
神様の御国に属する者が傲慢になりがちな自己を退けて、
自分よりも弱く(見える)者たちの弱さや理解力不足を
共に担っていく態度を学ぼうとする際に、
イエス様御自身が私たちにとっての最良の模範となります。
イエス様は、忍耐強く愛の奉仕を行うよう、私たち皆を招いておられます。

このことについて語られているパウロの手紙のもう一つの大切な箇所は
「フィリピの信徒への手紙」2511節です。
それによると、
キリストは神様の御姿であられたのに、
御自分を空しくして僕の姿となられました。
キリストは仕えるために、
他の誰も決してなし得なかったほどまでに御自分を低くなさいました。
苦しみを甘受なさるキリストの愛のイメージが心に浮かぶならば、
私たちは異なる意見の持ち主に対しても
以前にも増して忍耐強くその理解に努めることができるでしょう。

しかしその一方では、
エルサレム神殿から商人たちを追い出したイエス様と、
ガラテア教会の信徒たちと争ったパウロとが、
神様の御言葉の真理を隠蔽してはならないことを
私たちに示してくれる最高の模範になっています。

真理を意図的に隠すことも問題ですが、
それとは逆に、
自分を他の人よりも上位に位置付ける霊的な高慢さも好ましくありません。

2016年9月21日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 15章1〜6節 キリストの模範(その1)

壮大な計画

「ローマの信徒への手紙」15

今回取り上げる章で、
パウロは世界伝道を進めるための計画を公表します。
しばらくの間大使徒と一緒に腰を下ろして、
この計画がどのように実現するか、
息を凝らして見守ることにしましょう。

その話題に入る前に、
パウロはこの15章でも前章ですでに取り上げた内容をひき続き考察しています。
すなわち、
どのようにキリスト信仰者がお互いに愛を持って配慮し支え合うべきか、
パウロは語り続けるのです。

このことについてはすでに前回に検討を加えました。
依然として困難なこの周知の課題を復習することにしましょう。
15章で、さらにパウロは大切な視点を新たに提示しています。


キリストの模範 1516節(その1)

キリスト信仰者たちが互いにどのように 愛し合うべきか、
また、
彼らの間に生じうる(意見のなどの)相違をいかにして愛によって覆うべきか、
についてパウロはすでに長文を重ねてきました。

教会員各自が他の人々のことを配慮するよう心がける時に、
教会員同士の関係がもっともよい形で保たれることになります。
「強い」キリスト信仰者は、
「弱い」キリスト信仰者が躓いて
信仰の道から外れてしまわないようにするために、
自分の有する霊的な自由をあえて行使しないほうがよい場合もあることを
念頭に置いて行動するべきである、
とパウロは強調しています。

最初の節で彼は、
自分がすべての食べ物を等しく清い物として
神様の御手から感謝して受け取ることができる
「強い」キリスト信仰者であると認めています。
また彼はユダヤ人の祝祭の暦にも同じ姿勢を取っています。
パウロが自らの振る舞いによって
キリスト信仰者のあるべき模範を示したことを、
私たちは前回確認しました。

2016年9月14日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(14章)

終わりのメッセージ

信仰を通して洗礼の源へ

私たちが受けた聖なる洗礼を通して、
イエス様のあがないの血は私たちを覆って流れるようになりました。
この同じ血による清めを、私たちはいつもこれからも必要としています。
イエス様はこう言われているからです、
「私があなたを洗わなければ、
あなたは私とは何の関わりもないことになります」
(「ヨハネによる福音書」138節より)。

目覚めている良心はとても敏感で、わずかでも汚れることを嫌います。
それはちょうど、
ピカピカの鏡が息を吹きかけられると曇ってしまうのと似ています。
神様の律法は神聖で厳密なものであり、良心はとても臆病です。
一番小さな罪の汚れについてさえも律法は叱りつけ、裁きを下します。

それでも、
このイエス様のあがないの血はそれよりも何千倍も強力なので、
私たちを罪と汚れとからいつでもきれいに洗い清めてくれます。

ただし、そのために必要なことがあります。
それは、一度受けた洗礼を通して開かれた源へと
私たちが信仰を通していつでも何度でも戻っていくことです。
そして、このような洗い清めによって、
私たちは活ける神様にお仕えする力をいただきます。


F. G. Hedberg

2016年9月9日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 第12回目の質問

12回目の集まりのために

「ローマの信徒への手紙」14

教会の中には、
ある種の習慣に従う「弱い」キリスト信仰者もいれば、
これらの習慣に自己の良心が縛られていない
「強い」キリスト信仰者もいました。

パウロは両方のグループに対して、
キリスト信仰者にふさわしい愛のあり方に基づいて
他方のグループのことも考慮に入れて行動するように、
と勧告しています。

1)一部のキリスト信仰者にとっては
自らの良心に抵触するゆえに承認しがたいものだけれども、
他のキリスト信仰者にとっては良心に関わるものではない、
といった種類の問題にはどのようなものがありますか。

「ローマの信徒への手紙」14章における意味での「自由」を
キリスト信仰者ひとりひとりの判断に委ねることができるのは、
どのような問題についてでしょうか。

2)キリスト信仰者の良心は人により異なり、
神様の御言葉が命じている事柄のうちの一部を破っても平気な人々がいます。

自らの良心に反して聖書の御言葉を破ることを覚え、
他の事柄に関しても同様な違反を行うようになった
「弱い」キリスト信仰者に対して、
「強い」キリスト信仰者はどのような責任を負うのでしょうか。


3)この章の視点に基づいて教会を改革していこうとする場合、
それはどのように実現されていくべきなのでしょうか。

2016年9月2日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 14章13〜23節 互いに配慮し合うようになること(その4)

互いに配慮し合うようになること 141323節(その4)


パウロの実践例


キリスト信仰者の自由を強調しつつも、
その一方では、
他のキリスト信仰者たちの益を考えて
自分のもつ自由を行使しないことの大切さについて、
パウロはいろいろな手紙の中で書いています。

彼は、
ユダヤ人に接する時には自分もまた律法の下にいるかのように振る舞い、
異邦人に接する時には自分も律法の下にいないかのように振る舞おうとしました
(「コリントの信徒への第一の手紙」91923節)。

もしもある食べ物が他のキリスト信仰者を憤らせる場合には、
たとえその食べ物は汚れていないとわかっていても、
彼はそれを食べるのをやめました
(「コリントの信徒への第一の手紙」813節)。

彼がそうしたのは、ひとえに愛と福音のゆえでした。
パウロにとって食べ物や様々な習慣は副次的なものだったからです。
一番大切なのは、
キリストとその偉大さがいつでもどこでも皆の前にはっきり示されることでした。

キリストはその血によって、
私たちのことも「御自分のもの」として買い取ってくださり、
私たちの罪を帳消しにしてくださいました。
ですから私たちは今、自分のためではなく、キリストのために生きるのです。
それゆえに私たちは、
隣り人とその抱えている困難とに対して細やかに配慮して行くべきなのです。