2015年10月30日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 11章25〜36節 ユダヤ人の行く末は?(その1)


ユダヤ人の行く末は? 112536節(その1)


最後にパウロはこの奥義のヴェールを
少しばかり持ち上げて内側の様子を見せます。
それによれば、
終わりの時には福音がユダヤ人に受け入れられるようになるのです。

ユダヤ人に激情(あるいは妬み)を惹き起すよう努力した、
とパウロは言いました(111314節)。
異邦人に福音が宣べ伝えられる時に、
ユダヤ人はキリストこそが彼らの真の王であると思い至るようになります。

今のところ神様はユダヤ人をかたくななまま放置して、
異邦人が福音を受け入れるようになさいました。
しかし、いつかはユダヤ人も福音を受け入れる時が来ます。
救われる異邦人の数が満たされる時、
「全イスラエル」が救われることになります。
この「全イスラエル」という表現は
ユダヤ人を一人残さず内包するものではなく、
ユダヤの民の大多数を指していることを、
パウロと同時代のユダヤ人の残した文書によって知ることができます。
その特別な時が来ると、
キリストはユダヤ人の、異邦人の、そして全世界の主となられるのです。
この預言が実現するのを私たちは今もなお待ち続けています。

2015年10月22日木曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 11章1〜24節 残された聖徒たち、そして、異邦人の従順


残された聖徒たち、そして、異邦人の従順 11124

ユダヤ人たちは神様の救いの御業を脇へ押しやり、
自分のせいで神様の怒りを我が身に招いたのです。
「神の選民」という彼らの特別な地位はこの意味で失われてしまいました。
イスラエル民族の地位を事実上代わりに受け継いだのは、
「神のイスラエル」、すなわち教会です
(「ガラテアの信徒への手紙」616節)。
ということは、神様は御民を捨ててしまわれたのでしょうか。

神様が御自分の民を捨てるなどというのは、まったく考えられないことです
(パウロのこの手紙では再び、「とんでもありません」、
という強い否定表現が使われています)。 
エリヤの時代と同じことが、今ここで繰り返されているのです。
その時にも、イスラエル全体が活ける神様を捨てて、
バアルの崇拝者になり果てたように見えました。
エリヤは自分が主にお仕えする最後の一人である、と思い込んでいました。
ところが、 偶像を礼拝しなかった主の御民が
他にも大勢(七千人)残っていたことを彼は聞いたのです。
神様は、偶像を礼拝しなかった一部のイスラエルの御民を
ちゃんと残しておいてくださったのです。
これと同じことがパウロの時代にも起こったのだし、
また現代でも起こっているのです。
たしかに、ユダヤ人の大多数はキリストについての福音を聞きたがりません。
しかし聴こうとする人も中にはいます。
彼らは残された聖徒たちであり、
御民に対して神様が今も変わらずに忠実を貫いている
生きた証拠であるとも言えましょう。

パウロは、神様の救いの御業を捨てたユダヤ人たちを、
切り取られたブドウの木の枝にたとえています。
そうした枝の代わりに、
本来ならぶどう園とは何の関わりもない野生のブドウの木の枝が
接ぎ木されました。
このように神様は、だめになった枝を園から取り払うようにして、
不信仰なユダヤ人たちを取り除いたのです。
神様はイスラエル民族の代わりに異邦人を取り上げて、
彼らの間で福音が広められて行くように計らわれました。

2015年10月12日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 9章30節〜10章21節 神様のメッセージに耳を傾けないイスラエル(その3)

神様のメッセージに耳を傾けないイスラエル 930節〜1021節(その3)


イスラエルに起こった出来事は、
私たち皆が心に刻むべき教訓でもあります。
たしかに神様は全能なる権能によって、
御許に招くために御民を選抜しました。
そうしていただいたのに、
なおも救いにあずかることができずに
後に取り残されてしまった人々は、
そうなったのが頑なで罪深い自分自身のせいであったことを
認めるほかありません。

キリスト教が伝えられている国では、
罪の赦しの恵みは福音を通してすべての人に差し伸べられています。
それを受け入れないなら、
悪いのは受け入れない人の側だということになります。

私たちにできることといえば、
神様御自身がまさしく自分たちを信仰の道へと召して選んでくださったという
人間には説明不可能な奥義に対して、頭を垂れて感謝することだけです。

2015年10月7日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 9章30節〜10章21節 神様のメッセージに耳を傾けないイスラエル(その2)

神様のメッセージに耳を傾けないイスラエル 930節〜1021(その2)

この御旨を、ユダヤ人たちは聞き入れようとしません。
それゆえ彼らには、旧約聖書に預言されている通りのことが起きました
(「エレミヤ書」814節、2816節)。
彼らは躓きの隅石に実際に躓いてしまったのです。
彼らには、石を使って家を建てる者に対するのと同じことが起こりました。
今作ろうとしている壁に嵌め込めない奇妙な形の石を、
彼らは何度となく隅っこへ追いやりました。
ところが、
すべての石をまとめて支えるために最後に嵌め込むべき
隅の親石を探した時に、
それまで価値がないとみなされ捨てられたあの石こそが
実は最適だとわかりました。
このようにして、
ユダヤ人たちは神様の救いの御業を脇に押し退けてきたのです。

しかし、こういうことはその時に始まったことではありません。
イスラエルはそれ以前から神様に反抗する頑なな民だったのです。
本来ならイスラエルが神様の御前で受けるべき分を、
異邦の諸国民が来て受け取ることになる、
とモーセもイザヤも旧約聖書で預言しています。
イスラエルは除け者になりました。
それは、頑強に神様を拒み続ける自らの罪深さのせいでした。

2015年10月2日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 9章30節〜10章21節 神様のメッセージに耳を傾けないイスラエル(その1)


神様のメッセージに耳を傾けないイスラエル 930節〜1021節(その1)


パウロは救いへの二つの道を提示します。

神様は御子を
この世に送られ、苦しみにあわせ、死なせ、死者の中から復活させました。
その後で神様は、
キリストのあがないの血によってすべての罪が帳消しにされたことを、
全世界に知らせようとなさっています。
この救いの道を聴いて受け入れる者が
異邦人(非ユダヤ人)たちの中から出てきました。

ところが、この道はユダヤ人たちには受け入れられませんでした。
相も変わらず彼らは古くからあるもう一つの道を歩もうとしたのです。
この道は、
神様が定めたモーセの律法を実行する者が神様の御前で義しい者である、
とする救いの考えかたです。

ユダヤ人はたしかにこのことには非常に熱心ですが、
キリストが律法の終わりであり
信じる者皆にとっての義であることを
認めようとはしません。
救いというものが
神様から賜物としてただでいただけるほど簡単であるはずがない、
と彼らは考えます。

しかし、実に神様の御旨とはこういうものなのです。