2008年9月26日金曜日

マルコによる福音書 第1回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

罪を悔い改めることについて

新約聖書は律法に与えられている職務を守り、実行します。パウロは「神様の怒りが天からすべての人々の上にのぞむ」と言い(ローマの信徒への手紙1章)、さらに、「神様の御前で、全世界は罪にまみれており、義なる人はひとりもいない」(ローマの信徒への手紙3章)とも言っています。キリストは「聖霊様は世をその罪深さのゆえに告発する」(ヨハネによる福音書16章)と言われています。

これは「神様の雷(いかずち)」です。それによって神様は公然と罪をおかしている者たちや偽善者たちをいっしょくたになぎたおされます。神様は誰も自分が義しいなどと思いこませたりはなさらず、皆を恐怖におとしいれ、にっちもさっちもいかなくさせます。これは「斧」です。この斧についてエレミヤ書は「私の御言葉は岩を打ち砕く斧である」と語っています。これは人間が自分でひねりだした後悔などではなく、真心からの苦悩であり、死にそうになるほどの苦い体験なのです。

このようなことが本当の悔い改めのはじまりです。人は次の宣告を耳にしなければなりません。「公の罪人であろうと聖人であろうと、あなたがたは別人になって今とはちがうやり方で生活し行動するようにならなければなりません。仮にあなたがたがどんなに偉大で賢く権勢を誇り聖なる人間であったとしてもです。ここには義なる人などはひとりもいないのです。」

この律法に与えられている職務を果たしたあとで、新約聖書はすぐに福音の慰めにみちた恵みの約束を宣べ伝えてくれます。この約束は信仰をとおして受け取らなければなりません。それで、キリストは「方向転換して、福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章)と言われます。それは「変わりなさい。今までとはちがうやり方で行動しなさい。そして、私の約束を信じなさい。」という意味です。キリストの前にこの世に来た洗礼者ヨハネも方向転換の説教者と呼ばれたりします。しかし、それは罪の赦しへの準備を整えるためでした。ヨハネはすべての人を叱って彼らが罪人であることをはっきりさせなければなりませんでした。それは、神様の御前にでるということがどういうことか彼らがしるためであり、自分たちが滅ぶべき存在であることに気づくためであり、そうして彼らが主に対して用意が整っている、つまり主から罪の赦しの恵みを待ち望み受け入れる心構えができているようになるためでした。これと同じことをキリスト御自身も「私の御名によって世界中で方向転換と罪の赦しについて宣べ伝えられなければならない」(ルカによる福音書24章)と表現されています。

ところが、律法が今まで述べてきた職務をすべてひとりで引き受けてしまう場合には、福音が前面にでてこないどころか、そこには死や地獄が待ち受けていることになります。そして、人はサウルやユダのように絶望におちいってしまいます。聖パウロも「律法は罪の助けを借りて殺す」と言っています。一方、福音は慰めと罪の赦しを与えてくれます。それもただひとつのやり方によってではなく、御言葉とサクラメントをとおしてです。罪の過酷な牢獄と釣り合いをとるものとして、詩篇130篇にあるように、神様の御許には「ゆたかなあがない」がなければならないからです。

フレドリック・ガブリエル・ヘドベルグ (「唯一の救いの道」)

マルコによる福音書について 第1回目の質問

第1回目の集まりのために

洗礼者ヨハネの説教、イエス様の受洗、イエス様の活動の始まり

1)洗礼者ヨハネはイエス様の前を歩んだメッセンジャーでした。マルコによる福音書は洗礼者ヨハネを神様が旧約聖書でお与えになった「約束」に無理なく結び付けています。

私たちも旧約聖書をそれにふさわしく位置づけているでしょうか(新約聖書との密接な関連)?

2)洗礼者ヨハネの洗礼はどういう意味を持っていましたか?それはキリスト教的な意味での洗礼だったでしょうか(使徒の働き19章1~7節を読んでください!)?なぜイエス様は洗礼をヨハネからお受けになったのでしょうか?

3)地図でガリラヤ、ユダヤ、ナザレ、カペルナウムをさがしなさい。

4)どのようにイエス様はあなたを召されましたか?人は「何時」自分が信仰に入ったかについて知らなければならないのでしょうか?このようなことを強調する場合、どのようなよくない問題がでてきますか?

5)1章23~27節は、マルコによる福音書がデーモンや悪霊について語っている最初の箇所です。私たちはこれら(デーモンや悪霊)についてどのように考えるべきでしょうか?

6)「病人の癒し」は現代でも起きるでしょうか?このような奇跡が起きること、あるいは起きないことについて、どのような「しるし」がありますか?イエス様は御自分の奇跡について「誰にも話してはいけない」と命じられました。この禁止は私たちにとって何か意味がありますか?

2008年9月19日金曜日

マルコによる福音書について 1章29~45節

病人たちの癒し 1章29~34節

イエス様の権威には「病人たちの癒し」という出来事も関係しています。シモン(ペテロのこと)の舅やほかの多くの病人は、「イエス様はまことの主が遣わされたお方であり、命を与えてくださる神様の代表者である」ことを目の当たりにしました。ここで再び、「デーモンはイエス様について証することを許されなかったこと」が語られます。これはいわゆる「メシアの秘密」に関係しています。[1] 


「イエス様の運動」の拡大 1章35~39節

イエス様のたった一日の活動によって、カペルナウムは騒乱に陥りました。皆イエス様を捜し求めましたが、無駄でした。イエス様は祈るために孤独な場所に引きこもられたのです。弟子たちがイエス様を見つけたとき、イエス様は彼らを隣村に連れ出し、そこで福音を説教されました。悪霊は退き、病人は癒されました。こうして「神様の火」がその地方に燃え広がって行きました。

この神様の火が燃え広がっていった最初の場所がガリラヤ地方の小さな町や村であったのは注目に値します。ガリラヤの大きな中心部でも、もちろんユダヤでも、イエス様はまだこの段階では説教なさってはいませんでした。


ライ病人の清め 1章40~45節

イエス様の時代のパレスチナには社会組織の外部に追いやられた人々がいました。私たちは、マルコによる福音書を通して、多くのこうしたグループに出会うことになります。
それらのうちのひとつはライ病人のグループです。ライ病はやっかいな不治の皮膚病とみなされていました。この病気に罹った者はほかの人たちから隔離・追放されました。後代のラビたちの教えを調べてみると、この追放は徹底的になされました。ときにはライ病人に対して石を投げつけるという手段もとられました。「人は何かの「罪」の結果としてライ病に罹るのだ」と人々は考えました。たとえば、「高慢な目、嘘をつく舌、罪のない者の血を流させる手、神様をないがしろにしたひどい考えを好む心、悪い行いへと急ぐ足、証人の立場にありながら恥知らずな嘘をつくこと、兄弟の間に怒りの火を掻き立てること」などという罪です。

イエス様はこのようなライ病の男を見て癒されました。こうすることでイエス様は「病人は他の人々よりも罪深く侮蔑されるべき存在だ」という考えを斥けられたのでした。「この癒しについて誰にも話してはいけない」という絶対的な禁止がここでも語られます。またしても「メシアの秘密」です!癒された男はイエス様の命令を無視して、イエス様の奇跡について皆に話して回りました。その後、イエス様は当時の町々の狭い道端で活動していくことをお止めになりました。人々があらゆるところか御自分に会いに来れるように、イエス様は荒野に留まるようになったのです。

[1] これについては序を参照のこと。

2008年9月15日月曜日

マルコによる福音書について 1章14~28節

福音の始動 1章14~15節

ヘロデ王は洗礼者ヨハネを投獄し、後に殺させました(6章14~29節)。しかし、ヘロデ王は「神様の声」を沈黙させることはできませんでした。ヨハネが黙すると、今度はイエス様が活動を始められたのです。イエス様の教えの中には、人々を悔い改めへと導くことを目標としている「預言者たちの説教」が響いています。そこにはしかし、まったく新しい面があらわれています。すなわち、今や「神様の時」は満ちました。神様はまもなく革新的に公然と活動されます。神様の御国はこのように近くに来ているのだし、今までの長い間にわたる「待ちの時期」は過ぎました。「時が満ちる」という話は何百年もの間イスラエルの人々が待ち続けていたことがらに関係しています。預言者たちは大胆に人々の前に現れ、キリストと主の御国にかかわる神様の約束を伝えてきたのです。今やその約束が実現する時が来ました。イエス様の説教がどれほど力強く、豊かな内容に満ちていたのか、私たちの理解を超えています。


最初の弟子たち 1章16~20節
 
イエス様は人生の大部分をガリラヤで過ごされ活動されました。そこで最初の弟子たちをも召されました。イエス様がいかに率直に「ある人々」を御自分に従うように召されたかについて、福音は語っています。弟子たちはそれまでの自分の職業をその場で捨てました。猟師であった彼らの網は他の人にゆだねられました。イエス様のペルソナには、弟子たちをイエス様と行動を共にさせるような理解しがたい何かがあったのです。こうしてペテロやアンデレ、またヤコブとヨハネはイエス様と共に出発したのでした。彼らは、イエス様に最も近しい弟子として、後の教会が賞賛し模範とするような「召し」を受けたのです。12人の使徒たちには、はっきりとした特別な地位がありました。


カペルナウムでのイエス様 1章21~28節

ガリラヤ地方に位置するカペルナウムという町のシナゴーグ(集会堂)でイエス様は、マルコによる福音書が記している最初の「しるしのみわざ」を行われました。ユダヤ人たちには唯一の神殿がありました。それはエルサレムにありました。そこでのみ神様に犠牲をささげることが許されていました。エルサレム神殿のほかに、あちこちにたくさんのシナゴーグが存在し、そこでは安息日ごとに「律法と預言者」[1]が読まれました。ユダヤ人の男は、聖書の箇所を読んでその内容を説明することが許されていました。カペルナウムのシナゴーグを訪れたイエス様はこのやり方を利用したのです。イエス様の説教は聴衆に大きな驚嘆を惹き起こしました。そこには律法学者たちの教えとはまったく異なる権威が反映していました。イエス様が律法学者の伝統には属していないことは、聞き手にとってあきらかでした。さらに大きな驚嘆を巻き起こしたのは、説教と関係して、もうひとつの権威が示された時でした。すなわち、イエス様は汚れた霊を人から追い出されたのです。

汚れた霊、すなわちデーモンを人から追い出すことは、ユダヤ教文献には遅くとも紀元前200年前には現れ始めます。汚れた霊とは、神様の敵サタンが人の中に送り込んだものです。イエス様の生きておられた時代には、霊を操ることを職業とする者たちが大勢いました。そしてその大部分はユダヤ人であり、ギリシア人やローマ人にはあまりいませんでした。そのようなユダヤ人たちはその秘術を持ってローマの指導者層の人々、とりわけ、後に皇帝となるティトゥス・ヴェスパシアヌスやその諸侯を驚嘆させました。

イエス様が汚れた霊に取り付かれた男と出会ったとき、力と力の真の戦いが起きました。イエス様はイエス様の真の本質を見抜いたデーモンを沈黙させました。デーモンはイエス様の厳しい命令に従うことを余儀なくされ、驚くべきことに、取り付いていた男から出て行かざるを得なくなりました。ここでの福音の核心は、イエス様の「権威」にあります。それを反映しているのはイエス様の力強い説教であり、とりわけデーモンを追い出されたことです。人はサタンを軽蔑したりそれに反抗したりはできません。それができるのは神様のみです。イエス様がデーモンと戦うという大胆な行動を取ったのはどうしてでしょうか。そして、デーモンがイエス様に負けて「2番」に甘んじたのは、どうしてでしょうか。答えはひとつだけです。すなわち、イエス様は神様の権威によって活動されたのです。この出来事が生んだイエス様についての評判はガリラヤ全体に広まりました。

[1] 旧約聖書のことをさす。

2008年9月3日水曜日

マルコによる福音書について 1章1~12節

時は満ちた

マルコによる福音書1章

福音書の見出し 1章1節

マルコによる福音書は単純にしかも当時としてはめずらしい仕方で始まります。福音書の最初の節は福音書全体の見出しでもあるのです。そこでは、キリストの死と復活の時にようやくあきらかにされるべく創造の余地を残して伏せられていたことがらが、直接に語られているのです。それは、ナザレ人イエスが「キリスト」であり「神様の御子」でもある、ということです。福音書の使命はキリストの福音、喜ばしきメッセージについて語ることです。

「福音」という言葉にはたくさんの意味があります。私たちはマルコによる福音書とかマタイによる福音書などという表現に慣れています。しかし実はただひとつの福音があるのです。それは神様から人々へのメッセージです。新約聖書では福音はマタイ、マルコ、ルカやヨハネによって語られています。それぞれの福音書の視点はお互いに異なっていますが、メッセージはすべてに共通して「罪人たちに向けられた神様からの喜びの便り」です。


洗礼者ヨハネの説教 1章2~8節

新約聖書の魅力的な登場人物たちの中でも洗礼者ヨハネは見るものの目を釘付けにするような存在です。ヨハネの容姿も説教も旧約聖書の預言者たち、とりわけエリヤを思い起こさせます。洗礼者ヨハネの生活は厳しい節制と質素に貫かれていました。そしてこのような生活を送っている者にふさわしく、彼の説教もまた厳しさにみなぎっていました。その説教は大勢の民衆をひきつけました。洗礼者ヨハネについては福音書記者のほかにも当時のユダヤ人歴史家ヨセフスもまた書き記しています。イエス様の多くの弟子たちはもとはヨハネの弟子であったことを私たちは知っています。同様に、ヨハネの弟子たちは後にキリスト教会と競合するようなグループを形成し、「ヨハネが来るべきキリストであった」と信じていたことも、知られています。

マルコによる福音書は他の福音書と同様にヨハネ自身にはさほど注意を払わずに、むしろヨハネがキリストの先駆者であり新約と旧約の間のつながりを示している点に注目しています。イエス様の活動は旧約聖書がすでに語っていた神様の活動における「新しい局面」を意味していました。これを示しているのがまさしくヨハネの登場でした。彼はイザヤ書(40章3節)やマラキ書(3章1節)が予言していた、偉大なる主の到来を告げる使者なのです。神様の約束された救いのみわざはヨハネの活動をもって実現し始めました。ヨハネの宣教は厳しい悔い改めの説教でした。その影響によって民は自分の罪を告白し、その印として洗礼を受けました。ヨハネの洗礼は罪の赦しを保証するものではなく、父と子と聖霊の御名によるものでもありませんでした。それは罪の告白であり、神様の憐れみに寄り頼みつつ神様の御手に自分をゆだねることでした。それと同時に、神様がこの世の出来事の推移に対して革新的にかかわりをもって活動されることをも民は望んでいました。


イエス様の受洗と試練 1章9~12節

マルコはイエス様がどのようにヨハネから洗礼を受け、その後どのような試練にあわれたかについて飾り気なく語っています。イエス様が洗礼を受けられたのは非常に不思議なことです。ヨハネの洗礼は罪の告白を意味し、また神様の裁きの下に服することでもあったからです。他の福音書ではヨハネはイエス様が彼から洗礼を受けようとするのを妨げようとしたとも語っています。ともかくもイエス様が洗礼を受けられた瞬間に何か決定的に新しいことが起こりました。天が大きく開き、聖霊様が鳩のようにイエス様の上に降られ、神様の声が皆の前で証して「あなたは私の愛する子、あなたは私の心に適っている」という御言葉を告げたのでした。このようにマルコによる福音書の読者はすでにこの段階で、当時その場にいた人たちにとっては想像の域を出ずまた後でも人々の間で意見が対立することになる「ことがら」を知ることができます。すなわち、イエス様はたんなる人間ではなく、神様の御子であり、神様の権威に基づいて御父から与えられた使命を果たすためにこの世に来られた、ということです。

初期のキリスト教会の中には、「イエスははじめから神の子だったのではなく、神が彼を受洗の時に養子としたのだ」と教える者たちがいました。この聖書の箇所について今でもこのような説明を支持する聖書学者が多いです。しかし、聖書に書かれている以外のことをテキストから無理やり「深読み」しないことが大切です。ヨハネによる福音書の1章で「キリストは時の始まる前からすでに存在しておられた」ことが語られています。

イエス様の受洗についての大切な点は、「神様の御子が神様の御前で罪を告白された」ということです。「唯一の罪なきお方である神様の御子がヨハネの洗礼において私たちの罪の重荷を御自分の上に担い、それと同時に私たちの罪過についての責任を引き受けてくださった」と私たちは信じます。ここに福音の核心があります。すなわち、罪のないお方が罪人となられ、罪人である人間がこのお方のおかげで罪のない存在になるのです。
イエス様の試練についてはマタイやルカによる福音書により詳しく語られています。神様の多くの恵みの約束はほかでもない「荒野」にかかわっており(たとえばイザヤ書35章)、イエス様の受けられた40日間の試練の期間は、疑いなくイスラエルの民の40年間にわたる荒野での旅を反映しています。イスラエルの民が試みに負けたのとは異なり、イエス様は御父様に対して忠実を貫かれました。

マルコによる福音書について 序 その3

福音書の内容の区分け

マルコによる福音書はその舞台となっている地域に基づいて区分けするのが最良のようです。はじめの部分(1章1節~8章26節)は主にガリラヤにおけるイエス様の活動について語っています。次の部分(8章27節~10章)はエルサレムとゴルガタへと向かわれるイエス様の道を描いています。最後の部分(11章~16章)はエルサレムにおけるイエス様の受難と復活について語っています。