2025年10月24日金曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」2章14〜19節  真理の御言葉の教師(その2)

 真理の御言葉の教師(その2)

「テモテへの第二の手紙」2章14〜19節

 


「俗悪なむだ話を避けなさい。

それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、

彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。

その中にはヒメナオとピレトとがいる。」

(「テモテへの第二の手紙」2章16〜17節、口語訳)

 

異端の教師たちは「がん」のような存在です。

彼らの活動を抑止しないかぎり、

腐敗がどんどん蔓延していき、

最終的には命取りになります。

 

ヒメナオについてはすでに「テモテへの第一の手紙」1章20節にも

名前が挙げられています。

ヒメナオもピレトも他のことについては何も知られていないたちです。

 

「彼らは真理からはずれ、

復活はすでに済んでしまったと言い、

そして、ある人々の信仰をくつがえしている。」

(「テモテへの第二の手紙」2章18節、口語訳)

 

異端とは、

真理から外れてさまよい、的外れな生きかたをすることです

(「テモテへの第一の手紙」6章21節)。


異端に陥った者たちは

彼らに追従する人々のことも異端に巻き込んでいきます。


例えば、

グノーシス主義者ヴァレンティノスは

異端に陥っていたにもかかわらず、

ローマ教会の主教に選出される寸前まで行きました。


140年代にマルキオンは教会の大多数を異端に追い込みました。


300年代にアリウス派は

正しい教えを絶滅させかけるほどの脅威となりました。


遺憾ながら、

教会史では教会が異端に惑わされかけた事例がたくさんあります。

 

上節にあるように、異端の教師たちは「復活」を否定しました。


おそらく彼らはキリストの復活そのものを否定したのではなく、

キリスト信仰者の復活はすでに受洗時に起きたのだから

他の種類の復活はもう起きないというように教えたのでしょう。


このような教えは

パウロの洗礼(ギリシア語で「バプテスマ」)の教えに対する

誤解によるものだと思われます。

例えば、パウロは次のように書いています

(「ローマの信徒への手紙」6章3〜4節にも同様の教えがあります)。

 

「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、

同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、

彼と共によみがえらされたのである。」

(「コロサイの信徒への手紙」2章12節、口語訳)。

 

異端の教えがいかに猛威を振るおうとも

神様の築かれた土台は決して揺るがないことを次の節は教えています。

 

「しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、

それに次の句が証印として、しるされている。

「主は自分の者たちを知る」。

また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。」

(「テモテへの第二の手紙」2章19節、口語訳)

 

たとえエフェソのキリスト教徒の大多数が

正しい信仰を捨てたとしても(1章15節)、

絶望的な状況になったわけではありません。


神様は教会の主、真の主人、建築者であられるため、

人間が神様の御業を完全に無効にすることは決してできないからです。

 

「それゆえ、主なる神はこう言われる、

「見よ、わたしはシオンに

一つの石をすえて基とした。

これは試みを経た石、

堅くすえた尊い隅の石である。

『信ずる者はあわてることはない』。」

(「イザヤ書」28章16節、口語訳)。

 

主は「主のもの」たち(「信ずる者」)のことをよくご存知です

(「民数記」16章5節、

「マタイによる福音書」7章23節、

「コリントの信徒への第一の手紙」8章3節および14章38節)。

 

「主のもの」たちは不義から離れなければなりません

(「イザヤ書」52章11節)。

彼らは神様に由来するものを大切にしようとしますが、

神様の敵対者に由来するものに束縛されることは望みません。

 

2025年10月21日火曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」2章14〜19節 真理の御言葉の教師(その1)

 真理の御言葉の教師(その1)

「テモテへの第二の手紙」2章14〜19節

 

「あなたは、これらのことを彼らに思い出させて、

なんの益もなく、

聞いている人々を破滅におとしいれるだけである

言葉の争いをしないように、

神のみまえでおごそかに命じなさい。」

(「テモテへの第二の手紙」2章14節、口語訳)

 

言葉の争いは信仰に関わる懸案事項の解決には何の役にも立ちません。

言い争っているうちに

双方とも自分の意見をいっそう激しく主張するようになる傾向があるからです。


さまざまな異端をたくさん研究したある牧師は

「モルモン教などの信者たちと出会った時にはすぐ言い争いを始めたりせずに、

むしろその出会いを彼らにキリストを証する好機と考えるべきである」

と言ったことがあります。


これは重要な視点です。


キリスト教信仰とはキリストについて宣べ伝えることであり、

宗教に関わる諸問題について対話したり口論したりすることではありません

(「テトスへの手紙」3章10節も参考になります)。

 

上節の「破滅」はギリシア語で「カタストロフェー」といい、

現代でよく使われる「カタストロフィー」の元になっている言葉です。

救いをもたらす正しい信仰から迷い出てしまうことは

真のカタストロフィーだと言えましょう。

 

「あなたは真理の言葉を正しく教え、

恥じるところのない錬達した働き人になって、

神に自分をささげるように努めはげみなさい。」

(「テモテへの第二の手紙」2章15節、口語訳)

 

上節の「正しく教える」はギリシア語で「オルトトメオー」といい

「正しく切り分ける」という意味を持っています。

パウロも使用したとされる

ギリシア語旧約聖書七十人訳(セプトゥアギンタ)でこの単語は

例えば「(神様の)道を正しく教える」という意味で用いられています

(「箴言」3章6節および11章5節)。

 

「テモテへの第二の手紙」が書かれてから

約30年後に執筆された「ヨハネの黙示録」では、

エフェソの教会は自ら経験した忍耐と労苦について、

復活されたキリストからお褒めの言葉をいただきました

(「ヨハネの黙示録」2章2節)。

ということは、テモテは真理の言葉を

エフェソの信徒たちに正しく教えることができたのでしょう。

2025年10月3日金曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」2章8〜13節 神様の忠実さ(その2)

神様の忠実さ(その2)

「テモテへの第二の手紙」2章8〜13節

 

 

「次の言葉は確実である。

「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、

また彼と共に生きるであろう。」」

(「テモテへの第二の手紙」2章11節、口語訳)

 

「次の言葉は確実である」(ギリシア語で「ピストス・ホ・ロゴス」)は

牧会書簡で何度も用いられている表現です

(「テモテへの第一の手紙」1章15節および3章1節および4章9節、

「テトスへの手紙」3章8節)。

 

「テモテへの第二の手紙」2章11〜13節には、

現代の私たちには知られていない文書からの引用があります。

これは初期の教会の礼拝あるいは洗礼式の式文から

採られたものなのかもしれません。

 

「キリスト・イエスとともに死ぬこと」は

人が洗礼を受ける時に起きる出来事です

(「ローマの信徒への手紙」6章3、8節)。

 

「「もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。

もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。

たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。

彼は自分を偽ることが、できないのである」。」

(「テモテへの第二の手紙」2章12〜13節、口語訳)

 

洗礼において受洗者は

「キリスト信仰者として生きていく」という召命を受けます。

 

イエス様は使徒たちが来るべき神様の御国で

イスラエルの十二部族を御自身と共に支配するようになる

と約束なさいました

(「マタイによる福音書」19章28節。

また「ヨハネの黙示録」20章6節も参考になります)。

 

キリストは御自分を否んだ者たちを最後の裁きで否むことになる、

という聖書の記述(「マタイによる福音書」10章33節)は

大勢のキリスト信仰者を怯えさせました。


しかしここで思い出すべきことがあります。


ペテロは公の場で三度も「自分はイエスを知らない」

と言ってしまったにもかかわらず

(「マタイによる福音書」26章69〜75節)、

後になってから、

使徒のグループにふたたび参加させてもらえたということです

(「ヨハネによる福音書」21章15〜19節。

また「マルコによる福音書」16章7節も参考になります)。


人に最終的な裁きをもたらすのは、

キリストが全人類の罪を帳消しにした救い主であられることを

否定することであり、

キリストの証人としてうまくいかなかった個々の出来事ではありません。

 

上掲の箇所の終わりの

「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である」

という言葉は、キリストの忠実さを強調しています。


これこそが救いの基になっているものです。


救いは私たち人間の忠実さや不忠実さにではなく、

キリストが成し遂げられたことにのみ依存しているのです。

 

「彼(すなわち神様)は自分を偽ることが、できないのである」

という点で、

神様が御心により

御自分の全能性に自ら制限を設けておられることに注目しましょう。


御自身の本質のゆえに神様は悪を行うことができません。

全能者なる神様はどのようなこともできるにもかかわらず、

その本質のゆえに、よいことばかり行われるのです。

神様の特質のひとつに忠実さがあります。

 

「神は人のように偽ることはなく、

また人の子のように悔いることもない。

言ったことで、行わないことがあろうか、

語ったことで、しとげないことがあろうか。」

「民数記」23章19節、口語訳)

 

人間たちの不忠実さでさえ、

神様が約束なさったことを別の何かに変えることはできないのです

「ローマの信徒への手紙」3章3〜4節および9章6〜8節)。