「テモテへの第二の手紙」ガイドブック
告別の手紙(その2)
この手紙の書かれた当時のパウロの状況を考えてみましょう。
例えばスウェーデンの神学者Bo Giertzによる説明を踏まえると
おおよそ次のようにまとめるとことができるでしょう。
パウロはテモテをエフェソに残してマケドニヤに旅し、
そこで「テモテへの第一の手紙」を書いた。
その後で彼はクレタを訪れ、そこにテトスを残した
(ただしパウロはエフェソを訪問する以前に
クレタをすでに訪れていた可能性もある)。
クレタから彼はふたたびエフェソに赴き、そこでテモテと再会した
(「テモテへの第一の手紙」3章14節を参照のこと)。
そこから彼はミレトに行き、
病気になったトロピモはそこに留まることになった
(4章20節)。
ミレトからの旅はトロアスを通ってニコポリへと続けられたものと思われる
(「テトスへの手紙」3章12節)。
パウロはさらにイタリヤへと向かった。
ただし、パウロはローマに着いてから捕らえられたのか、
それともすでにクレタで捕まってそこからローマに連行されたのかは
はっきりしない。
ローマでパウロは死刑の判決を受けました
(4章6〜7節)。
後にローマの教会長となる教会教父クレメンスは
パウロの死刑が剣によって執行されたと記しています。
これはローマ市民に対する死刑執行法によるものでした
(「使徒言行録」22章25〜29節には
パウロがローマ市民であったことが記されています)。
教父ヒエロニュムスはローマ皇帝ネロの在任14年目すなわち西暦68年に
ペテロもパウロも死刑に処されたと記しています。
そしてネロは同年6月8日に皇帝の座を追われ、翌日に自殺しています。
「テモテへの第二の手紙」は使徒パウロの死の少し前に書かれています。
彼の裁判はすでに済んでいたことがこの手紙からわかるからです
(4章16節)。
おそらくパウロは死刑の執行を待つばかりの身となっていたのでしょう
(4章6〜7節)。
この手紙の末尾の「恵みが、あなたがたと共にあるように。」は
パウロが書き記し現存している最後の言葉の一つであると思われます。