2024年10月17日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節 五番目の福音書(その3)

 五番目の福音書(その3)

(「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節)

 

すでに旧約の時代にモーセはイスラエルの民を指導する自分の後継者として

ヨシュアを任命する時に按手というやりかたを行っています

(「民数記」27章18〜23節)。

 

「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちた人であった。

モーセが彼の上に手を置いたからである。

イスラエルの人々は彼に聞き従い、

主がモーセに命じられたとおりにおこなった。」

(「申命記」34章9節、口語訳)。

 

ユダヤ教の教師であるラビたちも新しくラビになる者に按手を施しました。

 

「すべての事にあなたの進歩があらわれるため、

これらの事を実行し、それを励みなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章15節、口語訳)

 

キリスト信仰者たちの指導者となる人物は

その前にまず特別に慎重な審査を受けます。

彼らが罪に堕落する場合、

それは平信徒たちが罪に堕落する場合よりも重大な意味を帯びるからです。

 

聖霊様から教えを受ける立場にわが身を置き続けることによって

キリスト信仰者は信仰において進歩することができます

(「フィリピの信徒への手紙」1章25節、3章12節)。

 

「イエスは彼に言われた、

「わたしは道であり、真理であり、命である。

だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

 

人間はイエス様という「道」を通してのみ救われることができます。

この道を終わりまで歩み続けなければなりません。

途中でこの道を歩むのを止めてしまうと目的地にはたどり着けなくなります

(「マルコによる福音書」13章13節、

「コリントの信徒への第一の手紙」15章2節、

「コロサイの信徒への手紙」1章22〜23節、

「ヘブライの信徒への手紙」3章14節)。

 

「自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。

そうすれば、あなたは、

自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。」

(「テモテへの第一の手紙」4章16節、口語訳)

 

誰も他の人を救うことはできません。

しかし他の人を救いの源であるキリストの御許へと導くことはできます

(「ローマの信徒への手紙」11章14節、

「コリントの信徒への第一の手紙」7章16節)。

 

「ヤコブの手紙」は次の言葉で締めくくられています。

 

「わたしの兄弟たちよ。

あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、

だれかが彼を引きもどすなら、

かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、

そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、

知るべきである。」

(「ヤコブの手紙」5章19〜20節、口語訳)

2024年10月10日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節 五番目の福音書(その2)

 五番目の福音書(その2)

(「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節)

 

「わたしがそちらに行く時まで、

聖書を朗読することと、

勧めをすることと、

教えることとに心を用いなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章13節、口語訳)

 

「聖書を朗読すること」とは聖書を公に朗読することです。

ユダヤ人たちは会堂の礼拝で旧約聖書を朗読しました

(「ネヘミヤ記」8章8節、

「ルカによる福音書」4章16〜19節、

「使徒言行録」13章15節、15章21節)。

キリスト信仰者たちは旧約聖書だけではなく

イエス様をめぐる出来事の記述について

礼拝で朗読する習慣がありました(5章18節も参考になります)。

これらの記述が後に福音書としてまとめられることになります。

キリスト信仰者たちは使徒たちの数々の手紙も礼拝で朗読しました

(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章27節、

「コロサイの信徒への手紙」4章16節、

「ペテロの第二の手紙」3章16節。

また「ヨハネの黙示録」1章3節、22章18〜19節も参照してください)。

 

礼拝では聖書の朗読に続いてその箇所の解き明かしがなされました

(「ルカによる福音書」4章21節、

「使徒言行録」13章16〜47節も参照してください)。


現代の教会の礼拝においても

説教は聖書の御言葉の適切な解き明かしであるべきものです。

 

上節は当時の礼拝の内容を表しています。

ここには聖餐式についての記述がありませんが、

最初の頃の教会のすべての礼拝では聖餐式が執り行われていました

(「コリントの信徒への第一の手紙」11章17〜21節)。

 

また上掲の節からは

パウロがこの段階では自分がエフェソに行けることを

希望していたことがわかります

(3章14節にもこの希望が述べられています)。

 

テモテは福音を宣教する教会職に任命されました(4章12節)。

おそらくこの任命は

パウロが彼を自分の同僚として連れて行った

第二次伝道旅行の時になされたものと思われます

(「使徒言行録」16章3節、

「テモテへの第二の手紙」1章6節)。

 

「長老の按手を受けた時、

預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、

軽視してはならない。」

(「テモテへの第一の手紙」4章14節、口語訳)

 

テモテをお選びになったのは人間ではなく神様です

(1章18節も参考になります)。

それゆえテモテを軽んじることは神様を軽んじることにもなります。

 

神様はテモテに教会職の遂行に必要な恵みの賜物を授けました。

パウロはこの賜物を十分に活用するようにとテモテを励ましています

(「テモテへの第二の手紙」1章6節)。

 

神様はキリスト信仰者各々が

いただいた賜物を活用していくようにと招いておられます。

 

それゆえ私たちは

キリスト信仰者が神様からいただいた賜物を無駄にしないようにするために、

ふさわしい人物がふさわしい職務に任命されることを祈らなければなりません。

2024年10月3日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節 五番目の福音書(その1)

 五番目の福音書(その1)

(「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節)

 

キリスト信仰者は「五番目の福音書」と呼ばれることがあります。

人々はキリスト信仰者たちの生き方を見て

「神様がどのような存在か?」また「神様を信じたほうがよいかどうか?」

をそれに基づいて決めることがあるからです。

残念ながら私たちキリスト信仰者は

新約聖書の四つの福音書よりもはるかに不完全な形で

神様がどのようなお方かを伝えているにすぎません。

私たちの生き方が聖書の教えと矛盾している場合に

私たちはそれを正すべきなのです。

ところが私たちの生き方を聖書の教えに従わせようとはせず、

逆に聖書のほうを私たちの生き方に適合させようとする試みが

残念ながらしばしば見られます。

 

「これらの事を命じ、また教えなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章11節、口語訳)

 

「これらの事を」という表現は「テモテへの第一の手紙」によく出てきます

(3章14節、4章11、15節、5章7、21節)。

これによってパウロはテモテが学んだ信仰の基礎のことを指しています。

最初期の頃よりキリスト教信仰はある種の「教義項目」を通し、

またそれらを活用することによって宣べ伝えられてきました

(4章6、16節も参照してください)。

 

「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。

むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、

信者の模範になりなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章12節、口語訳)

 

「テモテへの第一の手紙」が書かれた当時、テモテは約35歳でした。

当時の教会の指導者としてはまだ若かったといえます。

この節も60年代にこの手紙が執筆されたという推定を裏付けるものです。

西暦100年以降の時代にテモテはすでにかなりの高齢になっていたからです

(「コリントの信徒への第一の手紙」16章10〜11節も参考になります)。

 

パウロは自分の与えた模範に従うように他の人々に何度も呼びかけています

(「コリントの信徒への第一の手紙」11章1節、

「フィリピの信徒への手紙」3章17節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章6節、

「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章7、9節)。

パウロはテモテにも信仰者として

他のキリスト信仰者たちの模範になるように奨励しています

(「ヘブライの信徒への手紙」13章7節、

「ペテロの第一の手紙」5章3節も参照してください)。

 

人々から受ける敬意は本人が周囲から無理に要求して集めるものではありません。

まずはじめに自分が敬意を受けるに値する者であることを

自らの信仰生活を通して示していかなければならないのです。

 

信仰と愛の関係性(4章12節)は「十字架」によって描き出すことができます。

信仰はいわば十字架の縦棒であり、

人と神様の間の関係を表しています。

愛はいわば十字架の横棒であり、

人と他の人々すなわち隣り人たちとの関係を表しています。