信仰の奥義(その2)
「テモテへの第一の手紙」3章14〜16節
「確かに偉大なのは、この信心の奥義である、
「キリストは肉において現れ、
霊において義とせられ、
御使たちに見られ、
諸国民の間に伝えられ、
世界の中で信じられ、
栄光のうちに天に上げられた」。」
(「テモテへの第一の手紙」3章16節、口語訳)
キリストは「信心の奥義」であり
その奥義が何であるかを明らかにするお方でもあります
(「ローマの信徒への手紙」16章25節)。
「奥義」(ギリシア語で「ミュステーリオン」)は
パウロがしばしばキリスト教信仰について用いた表現です
(「ローマの信徒への手紙」11章25節、16章25節、
「コリントの信徒への第一の手紙」2章7節、4章1節、
13章2節、14章2節、15章51節、
「エフェソの信徒への手紙」1章9節、3章3〜4、9節、
5章32節、6章19節、
「コロサイの信徒への手紙」1章26〜27節、2章2節、4章3節、
「テモテへの第一の手紙」3章9節、
「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章7節(「不法の秘密の力」))。
上掲の節でパウロが引用している讃美は
おそらく当時の礼拝で歌われたものだったのでしょう。
この讃美にはキリストが人としてこの世にお生まれになる以前から
すでに神様として存在しておられたことを示唆する表現
(「キリストは肉において現れ」)が含まれていることに注目しましょう。
次の「フィリピの信徒への手紙」の箇所には
このことが明確に述べられています。
「キリストは、神のかたちであられたが、
神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。
その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、
しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」
(「フィリピの信徒への手紙」2章6〜8節、口語訳)。
「テモテへの第一の手紙」3章16節の讃美は三つの詩節から構成され、
各々の詩節は二つの行からなっています。
もしもこの讃美の詩の内容が時間的順序に従って歌われているものだとすれば、
最後の行の「栄光のうちに天に上げられた」という表現は
イエス様の再臨を指していることになるのでしょうが、
それはやや不自然な解釈に思われます。
むしろここでは信仰の中心的な事柄について
天と地の視点から歌い上げられていると捉えたほうが適切であると思われます。
「霊において義とせられ」というのは
キリストが義であることを御霊が明らかになさるという意味です。
人間とその理性は
イエス様のうちに死する普通の人間しか見ることができません。
しかし御霊は
イエス様が神様の義なる御子としてキリスト信仰者たちを義とされることを
明らかにしてくださるのです
(「ローマの信徒への手紙」1章2〜5節、
「ペテロの第一の手紙」3章18節)。
「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、
わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」
(「ローマの信徒への手紙」4章25節、口語訳)
讃美に出てくる「御使たち」(「テモテへの第一の手紙」3章16節)は
イエス様の復活(「マタイによる福音書」28章2節)と
昇天(「使徒言行録」1章10節)の出来事の場にいて
それらが真実であることを証しています。
また「諸国民の間に伝えられ」とあるように、
福音はすべての諸国民に宣べ伝えられていくために与えられているものです。