2024年3月1日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章1〜7節 すべての人は救いへと招かれている(その4)

ルター派の信仰では

「この世の権威」と「信仰的な権威」

という二つの権威を分けて考えます。

これは「二王国論」とも呼ばれています。


この世の権威は法に基づいて機能しますが、

信仰的な権威は福音に基づいて活動します。

これら二つの権威は互いに混同してはいけません。

また一方が他方の領域に干渉すべきでもありません。


「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、

王たちと上に立っているすべての人々のために、

願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」2章1節、口語訳)

 

「人々について祈るべき事柄を第一に神様に述べなさい。

その後で彼らに対して神様についての話をしなさい」

という古くからある良い助言は

上節でパウロの与えている指示と調和するものです。

 

「それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、

真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。」

(「テモテへの第一の手紙」2章2節、口語訳)

 

「信心深さ」はギリシア語では「エウセベイア」と言って、

牧会書簡では合計10回用いられています

(「テモテへの第一の手紙」2章2節、3章16節、4章7、8節、

6章3、5、6、11節、「テモテへの第二の手紙」3章5節、

「テトスへの手紙」1章1節)。


口語訳での翻訳は「信心」あるいは「信心深さ」になっています。

なお牧会書簡以外の手紙ではパウロはこの単語を一度も使用していません。

 

「神は唯一であり、

神と人との間の仲保者もただひとりであって、

それは人なるキリスト・イエスである。

彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、

それは、定められた時になされたあかしにほかならない。」

(「テモテへの第一の手紙」2章5〜6節、口語訳)

 

これらの節でパウロは

初期の教会の信仰告白あるいは礼拝式文を引用しています。

 

神様は唯一なので、信仰と洗礼もただ一つです

(「エフェソの信徒への手紙」4章5節)。


ただ一つの洗礼しかない以上、

再度洗礼を授けたり受けたりすることは誤った行為であると言えます。


古い歴史をもつキリスト教会では

三位一体なる神様の御名すなわち

御父、御子、御霊の御名によって洗礼を授けられた人に

再び洗礼を授け直すことはしません。


しかし

キリスト教以外のやりかたで施行された「洗礼」を受けた人が

キリスト教会の会員になる場合には、

その人にキリスト教の洗礼を授けます。