2020年6月25日木曜日

「ルツ記」ガイドブック 相次ぐ不幸 「ルツ記」1章 飢餓を逃れて 「ルツ記」1章1〜5節(その1)

相次ぐ不幸 「ルツ記」1章

 

 

飢餓を逃れて 「ルツ記」1章1〜5節(その1)

 

「ルツ記」に描かれている最初の不幸な出来事はイスラエルで起きた飢饉です。

エリメレクの家族はこの飢饉を逃れるために隣国のモアブに移住しました。

しかし、彼らはその地でも次々と不幸に見舞われました。

それはまさに次に引用する「アモス書」にあるような

「踏んだり蹴ったり」の状態だったと言えます。

私たちの中にも人生のある時期に集中して様々な不幸に遭遇する

経験をしたことがある人は意外に多いのではないでしょうか。

 

「人がししの前を逃れてもくまに出会い、

また家にはいって、手を壁につけると、

へびにかまれるようなものである。」

(「アモス書」5章19節、口語訳)

 

「ルツ記」は士師の時代の出来事であったことが

「ルツ記」1章1節には記されています。

しかし旧約聖書の「士師記」にはこの飢饉に該当する記述が見当たりません。

この齟齬については、

「ルツ記」の飢饉はこの地をしばしば襲った普通の意味での飢饉ではなく、

外敵ミデアン人の襲撃によって生じた土地の荒廃のことをさしている、

という説明も提案されています。

 

「イスラエルの人々はまた主の前に悪をおこなったので、

主は彼らを七年の間ミデアンびとの手にわたされた。

ミデアンびとの手はイスラエルに勝った。

イスラエルの人々はミデアンびとのゆえに、

山にある岩屋と、ほら穴と要害とを自分たちのために造った。

イスラエルびとが種をまいた時には、

いつもミデアンびと、アマレクびとおよび東方の民が上ってきて

イスラエルびとを襲い、イスラエルびとに向かって陣を取り、

地の産物を荒してガザの附近にまで及び、

イスラエルのうちに命をつなぐべき物を残さず、

羊も牛もろばも残さなかった。

彼らが家畜と天幕を携えて、いなごのように多く上ってきたからである。

すなわち彼らとそのらくだは無数であって、

彼らは国を荒すためにはいってきたのであった。

こうしてイスラエルはミデアンびとのために非常に衰え、

イスラエルの人々は主に呼ばわった。」

(「士師記」6章1〜6節、口語訳)

 

このようにミデアン人たちは何年にもわたって

イスラエルの地の産物を徹底的に荒らしたのです。

どうしてナオミが、おそらくは10年以上も経ってから

ようやくモアブからベツレヘムに帰還することを決意したのか、

その理由もこれによって説明がつきます。

ミデアン人の襲来が「飢饉」の原因であったとすれば、

「ルツ記」の出来事は士師ギデオンの時代に起きたことになります。

 

「ベツレヘム」はヘブライ語で「パンの家」を意味します。

ベツレヘムの地域は穀物が豊かにとれる土壌を有していました。

ところが、そこにも「飢饉」が起きたのです。

この町はエルサレムから南方約8キロメートルのところにあり、

次の引用箇所からもわかるようにダヴィデ王の故郷でもありました。

 

「その時、ひとりの若者がこたえた、

「わたしはベツレヘムびとエッサイの子(ダヴィデのこと)を見ましたが、

琴がじょうずで、勇気もあり、いくさびとで、弁舌にひいで、姿の美しい人です。

また主が彼と共におられます」。」

(「サムエル記上」16章18節、口語訳)

 

「ルツ記」はベツレヘムとダヴィデとの関連性について

貴重な情報をあたえてくれます。

 

聖書ではしばしば「ベツレヘム」と一緒に

「エフラタ」という地名も挙げられています

(「ルツ記」1章2節、「創世記」35章19節、

「サムエル記上」17章12節、「ミカ書」5章1節)。

「実り豊か」という意味をもつ「エフラタ」は

ベツレヘムの周辺地域を表す言葉であると思われます。

 

「しかしベツレヘム・エフラタよ、

あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、

イスラエルを治める者があなたのうちから

わたしのために出る。

その出るのは昔から、いにしえの日からである。」

(「ミカ書」5章1節、口語訳)

 

どうしてエリメレクが家族揃ってほかでもなくモアブの地に移住したのか、

その理由は説明されていません。

モアブは南東に位置する隣国でしたが、

イスラエルの民からは不興を買っていました。

「アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。

彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。」

(「申命記」23章4節、口語訳)と主も命じておられます。


もしも飢饉の原因がミデアン人たちによる襲撃にあるとしたら、

エリメレク一家の移住にも説明が付きます。

ミデアン人たちがイスラエルの地を攻撃したときに、

モアブの地はかろうじてその攻撃を免れて平和を保つことができたのでしょう。

モアブ人たちは「ケモシ」という名の偶像を崇拝していました。

この偶像礼拝には人間の子どもを生贄として捧げる儀式も含まれていたことが

次の引用箇所からわかります。

 

「モアブの王は戦いがあまりに激しく、当りがたいのを見て、

つるぎを抜く者七百人を率い、エドムの王の所に突き入ろうとしたが、

果さなかったので、

自分の位を継ぐべきその長子をとって城壁の上で燔祭としてささげた。

その時イスラエルに大いなる憤りが臨んだので、

彼らは彼をすてて自分の国に帰った。」

(「列王記下」3章26〜27節、口語訳)