2019年7月1日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 「ざんげの詩篇」

「ざんげの詩篇」

「ざんげの詩篇」という名で呼ばれる詩篇の一群があり、
中世以来の伝統に基づいて他の「詩篇」から区別されています。
キリスト信仰者たちにとって「ざんげの詩篇」は
時代を超えてとりわけ大切な意味を持つ詩篇たちでした。
詩篇につけられている番号でいうと
6、32、38、51、102、130、143篇が
「ざんげの詩篇」に分類されています。
ルターは詩篇全体をこよなく愛していましたが、
とりわけこれら一連の詩篇には特別な愛着をもっていました。

現代の詩篇研究のもたらした最良の成果のひとつとして
「個々の詩篇にはどのような内容的特徴があるか」という問題設定があります。
この観点による研究では、
上述の「ざんげの詩篇」が最初からひとつの固定したまとまりとして
扱われることはありません。
たとえば、宗教改革者マルティン・ルターも
「詩篇」32篇が内容的には「ざんげの詩篇」ではなく
「教えの詩篇」であることに当時すでに気づいていました。

現代の詩篇研究では、広大で多彩な一群の詩篇が
「個人の嘆きの詩篇」として分類されています。
このグループには今まで伝統的に「ざんげの詩篇」と呼ばれてきた
ほとんどすべての詩篇が含まれます。
これらの詩篇からは、人間に痛みや苦しみを引き起こす多くの要因の中でも
とりわけ二つの事柄が浮かび上がってきます。
それは「敵」と「病気」です。

また、この詩篇講義で取り上げる幾つかの詩篇では、
痛みや苦しみの要因として「罪」が挙げられています。
ですから、これらの詩篇は
まさに「ざんげの詩篇」という呼称がふさわしいものと言えるでしょう。
もちろん私たちは呼称にそれほど拘泥する必要はありません。