2025年6月30日月曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」1章6〜14節 救いの歴史の連鎖を構成するものとして(その3)

 救いの歴史の連鎖を構成するものとして

「テモテへの第二の手紙」1章6〜14節(その3)

  

「神はわたしたちを救い、

聖なる招きをもって召して下さったのであるが、

それは、わたしたちのわざによるのではなく、

神ご自身の計画に基き、

また、永遠の昔にキリスト・イエスにあって

わたしたちに賜わっていた恵み、

そして今や、

わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって

明らかにされた恵みによるのである。

キリストは死を滅ぼし、

福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。」

(「テモテへの第二の手紙」1章9〜10節、口語訳)

 

神様の御国への聖なる招きと救いについて述べている上掲の箇所は

当時の教会の洗礼式の式文の一部であったと考えられています。

 

救いはひとえに神様の恵みによるものであり、

私たち人間の行いにはまったく関係がありません(1章9節)。


ただ神様の恵みのゆえに

私たちは神様の子どもとして救いにあずかるように招かれているのです

(「ローマの信徒への手紙」3章28節、

「エフェソの信徒への手紙」2章8〜9節、

「テトスへの手紙」3章5節)。

 

これと同じことは

神様がこの世の始まる前にすでに

人間のための救いの歴史について決めておられたことにもうかがえます。


人類を救われる神様の御計画は

人が誰ひとり何ひとつ行わないうちに

すでに決められていたのです

(「エフェソの信徒への手紙」1章4節、

「ペテロの第一の手紙」1章20節)。

 

神様による選びは人間の理性では把握できません。

しかしそれは聖書に忠実な教えなのです。


宗教改革者マルティン・ルターは

当時の高名な人文主義者エラスムスの著書「自由意志論」を反駁するために

「奴隷的意志」という著書によってこの難問と取り組みました。

 

神様からすれば、

最初の人間たちが罪に堕落したこと(「創世記」3章1〜19節)は

予想外の出来事ではありませんでした。

神様はあらかじめそのような事態を想定しておられたからです。


全人類が罪へ堕落したために猛威を振るうようになった破滅の力は

ゴルゴタの十字架において無力化されました。


十字架にかけられたキリストが

すべての人のすべての罪のために身代わりに死んでくださったからです

(「ヨハネの第一の手紙」2章2節)。


イエス様は私たちを圧倒的な罪の力から解放して

(「テモテへの第二の手紙」1章10節、

「テトスへの手紙」1章4節、2章13節、3章6節)、

暗闇から光へと救い出してくださいました

(「テモテへの第一の手紙」1章1節、2章3節、4章10節、

「テトスへの手紙」1章3節、2章10節、3章4節)。

2025年6月9日月曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」1章6〜14節 救いの歴史の連鎖を構成するものとして(その2)

救いの歴史の連鎖を構成するものとして(その2)

「テモテへの第二の手紙」1章6〜14節

 

「というのは、

神がわたしたちに下さったのは、

臆する霊ではなく、

力と愛と慎みとの霊なのである。」

(「テモテへの第二の手紙」1章7節、口語訳)

 

テモテは内向的な性格だったようです。

パウロはコリントの信徒たちにテモテを軽んじないように忠告しています

(「コリントの信徒への第一の手紙」16章10〜11節。

また「テモテへの第一の手紙」4章12節も参考になります)。

 

「だから、あなたは、

わたしたちの主のあかしをすることや、

わたしが主の囚人であることを、

決して恥ずかしく思ってはならない。

むしろ、神の力にささえられて、

福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」

(「テモテへの第二の手紙」1章8節、口語訳)

 

パウロは

自分がテモテからも見捨てられるのではないか

危惧していたふしがあります

(1章15節。

また「ヨハネによる福音書」6章67節も参考になります)。


異端教師たちが高い人気を誇る一方で、

あくまでも正しい教えにこだわるパウロは

教会員たちからも疎まれる存在だったのかもしれません。

教会の長い歴史の中では、

大部分の教会が偽の信仰に陥り

ごく一部の少数派だけが正しい信仰に留まる

という異常事態が発生したことがあります。

300年代のアリウス派の異端や、

とりわけ宗教改革以前のローマ・カトリック教会などが

その典型的な事例です。

 

上掲の節にもあるように、

パウロは福音を恥じませんでした

(「ローマの信徒への手紙」1章16節、

「コリントの信徒への第一の手紙」2章1〜10節)。

 

テモテも福音のゆえに苦しみを受けたことが上節からは伝わってきます。

「ヘブライの信徒への手紙」13章23節は

モテも囚人となった経験があることを示唆しています。

 

パウロは囚人となることを

キリストの証人の甘受すべき試練のうちのひとつとみなしていました

(「エフェソの信徒への手紙」3章1節、4章1節、

「フィレモンへの手紙」1節、9節)。


しかしこの苦難も

神様からのお助け(「神の力」)によってのみ

耐え忍ぶことができるものです。

2025年6月5日木曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」1章6〜14節 救いの歴史の連鎖を構成するものとして(その1)

 救いの歴史の連鎖を構成するものとして(その1)

「テモテへの第二の手紙」1章6〜14節

 

「こういうわけで、あなたに注意したい。

わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、

再び燃えたたせなさい。」

(「テモテへの第二の手紙」1章6節、口語訳)

 

福音を説教する教会の責任者(牧師)になる按手を

パウロから受けた時に

テモテがどのような「神の賜物」を授けられたのか私たちは知りません

(「テモテへの第一の手紙」4章14節)。

もしかしたらこの賜物は「牧師職」それ自体を指していたのかもしれません。

パウロは教会職を「恵みの賜物」とみなしていたからです

(「ローマの信徒への手紙」12章6〜8節、

「コリントの信徒への第一の手紙」12章4〜5節)。

 

ローマ・カトリック教会は上節などを根拠にして

牧師職が聖礼典(サクラメント)であるという教義的立場をとっています

(「エフェソの信徒への手紙」4章7、11節も参照してください)。


それに対して宗教改革者マルティン・ルターは

聖礼典では神様の命じる御言葉に具体的な物質が結びついていなければならない

と教えました。

それゆえルターは牧師職ばかりか

改悛(牧師に罪を告白し牧師から罪の赦しの宣言を受けること)さえも

聖礼典としては認めようとしませんでした。


彼が明確に聖礼典として認めたのは

洗礼と聖餐の二つだけでした。


御言葉は

洗礼では水と

聖餐ではパンやぶどう酒と

分かちがたく結びついているからです。