避けるべきことと追い求めるべきこと(その1)
「テモテへの第一の手紙」6章11〜16節
「しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。
そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」6章11節、口語訳)
信仰生活では避けなければならない事柄もあるし、
追い求めなければならない事柄もあります。
悪い事柄を捨て去るだけでは十分ではありません。
悪い事柄が人間の生活をふたたび左右するようにならないために
良い事柄によってそれを満たすべきなのです
(「マタイによる福音書」12章43〜45節も参考になります)。
「神の人」とはここではテモテのことを指しています
(6章20節と比べてください)。
「神の人」は例えば旧約聖書の次の人物たちについて用いられた尊称です。
モーセ
(「申命記」33章1節、
「ヨシュア記」14章6節、
「歴代志上」23章14〜15節、
「詩篇」90篇1節)。
サムエル
(「サムエル記上」9章6節)
ダビデ
(「ネヘミヤ記」12章24、36節)
預言者
シマヤ(「列王記上」12章22節)
エリヤ
(「列王記上」17章18節、
「列王記下」1章9節)
エリシャ
(「列王記下」4章7節)
レカブびとハナン
(「エレミヤ書」35章4節)
名前のわからない三人の預言者たち
(「サムエル記上」2章27節、
「列王記上」13章1〜3節、
「歴代志下」25章7節)
新約聖書で「神の人」という表現がみられるのは
上掲の節以外では「テモテへの第二の手紙」3章17節だけです。
そこではこの言葉はキリスト信仰者一般を指しています。
「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。
あなたは、そのために召され、
多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」
(「テモテへの第一の手紙」6章12節、口語訳)
私たち人間がこの世で完全には実現できないような事柄を要求してくる
「キリスト教」のような教えがしばしば見られます。
非の打ちどころのない生き方、完璧な信仰生活などがその例です。
しかし、むしろ私たちは
それ自体としては望ましいそれらの事柄を
この世では十分実現できないことをきちんと自覚しつつ、
いくらかでも実現していくために
主からの招きを受けていると考えるべきなのです。
いくら熱心に競争したとしても
ゴールに辿り着けないのであれば意味がありません
(「コリントの信徒への第一の手紙」9章24〜27節、
「ヘブライの信徒への手紙」12章1節。
「ルカによる福音書」13章24節、
「ヘブライの信徒への手紙」10章32節も参考になります)。
キリスト教信仰は永遠の命への招きであると言えます
(「使徒言行録」13章46〜48節)。
他の箇所でもパウロは
神様が人々を御国に招いておられるということを強調しています。
救いは神様の御業であり人間の行いではありません
(「ローマの信徒への手紙」8章30節、
「コリントの信徒への第一の手紙」1章9〜10節、
「ガラテアの信徒への手紙」1章6節、
「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章12節)。
上掲の節にある「あかし」とは、
人が洗礼を受ける時に告白したキリスト教の信条を指しているか
(「ローマの信徒への手紙」10章9〜10節)、
あるいは(このほうがより真実に近いと思われますが)、
テモテが福音宣教者の職務に任命されて按手を受けた時に
自ら口頭で告白した信条を指している
(「テモテへの第一の手紙」4章14節、
「テモテへの第二の手紙」1章6節)
とも考えることができます。
「わたしはすべてのものを生かして下さる神のみまえと、
またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをなさった
キリスト・イエスのみまえで、あなたに命じる。」
(「テモテへの第一の手紙」6章13節、口語訳)
「ポンテオ・ピラトの面前で」は使徒信条のものと同じです。
イエス様はポンテオ・ピラトの面前で
御自分がメシアであることをあかしなさいました
(「ヨハネによる福音書」18章33〜37節、19章10〜11節)。