2025年2月17日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節 偽りの富と正しい富(その2)

 偽りの富と正しい富(その2)

「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節

 

「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。」

(「テモテへの第一の手紙」6章6節、口語訳)

 

信仰は富の源です。

しかしそれはこの世的な富ではなくて天国的な富の源です。

 

「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。

また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。」

(「テモテへの第一の手紙」6章7節、口語訳)

 

人は何も持たずにこの世に生まれ、

同じく何も持たずにこの世から去っていきます

(「ヨブ記」1章21節)。

死んだ人がこの世にどれだけのものを残したのか考えてみましょう。

その答えは富者も貧者も等しく「全部」です。

この世から去る時には誰も何も携えて行くことはできません

(「詩篇」39篇7節、49篇18節、

「伝道の書」5章14節も参考になります)。

 

「金銭を愛することは、すべての悪の根である。

ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、

多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」

(「テモテへの第一の手紙」6章10節、口語訳)

 

ここで問題視されているのは金銭自体ではなく

金銭欲であることに注意するのが大切です。

金銭は現代社会では必要不可欠な交換手段なので、

金銭との関係をまったくなくすることはできません。

ある神学者が言ったように「この世的な信仰告白」は

「もっと多く!」という標語にまとめることができます。

金銭は麻薬に似たところがあります。

しだいに今までよりも多くの量が欲しくてしかたがなくなり、

しかもそれでも満足できなくなってしまうのです。

金銭の後を追いかけ回すのは塩水を飲み続けることに似ています。

飲めば飲むほど喉の渇きを覚えるようになるのです。

 

聖書には金銭欲で身を滅ぼした人々の例が数多く記されています。

アカンは自身の金銭欲のせいで

イスラエルの民全体に深刻な問題を引き起こしました

(「ヨシュア記」7章)。

イスカリオテのユダは銀貨三十枚の代価として

イエス様を敵に売り渡しました

(「マタイによる福音書」26章14〜16節)。

アナニヤとその妻サッピラは自らの強欲のせいで

神様から死刑の裁きを受けることになりました

(「使徒言行録」5章1〜11節)。

 

上掲の節のはじめの部分

(「金銭を愛することは、すべての悪の根である」)は

翻訳上の問題を含んでいます。

「すべての罪は金銭欲から生じている」とも解釈できそうですが、

パウロ自身はそのようには考えていなかったからです

(「ガラテアの信徒への手紙」5章17〜21節と比べてください)。

むしろ「金銭欲は諸悪の根源である」と訳した方が

パウロの本来の考えに近いでしょう。

 

人はいともたやすく創造主の代わりに被造物を崇拝するようになりやすい

ということを上節は私たちに思い起こさせます。

 

今まで扱ってきた「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節は、

神様の御国では金銭の使用について透明化されるべきである

ということを教えています。

隠し口座などがあってはならないのです。

 

2025年2月14日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節 偽りの富と正しい富(その1)

 偽りの富と正しい富(その1)

「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節

 

6章2節の最後の言葉「あなたは、これらの事を教えかつ勧めなさい。」

は1〜2節に結びつけることもできるし、

3〜10節に結びつけて理解することもできます。


テモテには正しいキリスト教の教義を教会員たちに教える義務がありました

(1〜2節)。

またテモテは偽りの教義に対して沈黙していてはいけないのです(3〜10節)。

 

「もし違ったことを教えて、

わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に

同意しないような者があれば、」

(「テモテへの第一の手紙」6章3節、口語訳)

 

福音はただ一つしかありません(「ガラテアの信徒への手紙」1章6〜9節)。

それゆえ福音について違うことを教える者は異端教師ということになります

(「テモテへの第一の手紙」1章3〜7節、4章1〜5節、6章20〜21節)。

 

正しい教義は福音から出てくるものです。

「私たちの主イエス・キリストの健全な言葉」とは、

福音書やイエス様の特定の御言葉の集まりのことではなく、

福音全体を意味しています。


パウロはこの箇所で彼自身がエフェソで提示したキリスト教の教義のことを

含意しているという説もあります

(「コリントの信徒への第二の手紙」13章3節、

「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章6、12節。

また「ルカによる福音書」10章16節、

「使徒言行録」1章1〜2節なども参考になります)。

 

正しい教義は人々を縛る「足枷」では決してなく、

真摯なキリスト信仰者を罪の圧制の下から自由な信仰生活へと

解放してくれるものです

(「ヨハネによる福音書」8章36節)。

 

「彼は高慢であって、何も知らず、

ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。

そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、

また知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、

はてしのないいがみ合いが起るのである。」

(「テモテへの第一の手紙」6章4〜5節、口語訳)

 

偽りの教師たちの特徴としては次の三つを挙げることができます。

 

A)論議と言葉の争いとに病みつきになっていて教会内に分裂を引き起こす

B)かつては正しい信仰をもっていたが真理にそむきそれを捨ててしまった

C)真理よりも金銭を愛してしまった

 

「いがみ合い」を異端への警告と混同するべきではありません。

教会が理想とするべき態度とは、

何でもかんでもすべて認めて受け入れてしまうことではなく、

教会が正しい教義に自らをしっかり繋留することです。

 

宗教は人が裕福になるためのたんなる手段に

いともたやすく成り下がってしまうものです。

アメリカのテレビに登場した多くの説教者たちがその実例です。


パウロの時代のエフェソでは

アルテミスの神殿のミニチュアの模型がよく売れていました。

ところが、エフェソでキリスト教が広がっていくにつれて

その売れ行きが落ち込んでしまったために、

アルテミス崇拝を金稼ぎの手段にしていた者たちは

キリスト教という新たな宗教の伝道活動を妨げようとしたのです

(「使徒言行録」19章23〜41節)。

 

パウロは「エフェソの信徒への手紙」で「貪欲」について警告しています

(「エフェソの信徒への手紙」5章3節)。

異教の宗教性のもたらすこの悪習が

エフェソのキリスト信仰者たちのことをも脅かしていたようです。

 

パウロは教会の援助に頼ることなく

自らの手で生活に必要な収入を稼いでいることを

誇りとしていました

(「使徒言行録」20章32〜35節、

「コリントの信徒への第二の手紙」2章17節、

11章7〜21節、12章13〜18節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章5節)。

 

しかしこのことは誤解も生みました。

「パウロは使徒ではないから生活費を教会から要求する勇気がなかったのだ」

といった言いがかりをつける者たちが出てきたのです

(「コリントの信徒への第二の手紙」11章7節)。

このような非難を受けても

パウロは天幕造りで生計を立てる福音伝道師の生き方を止めませんでした

(「使徒言行録」18章1〜5節)。