偽りの富と正しい富(その2)
「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節
「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。」
(「テモテへの第一の手紙」6章6節、口語訳)
信仰は富の源です。
しかしそれはこの世的な富ではなくて天国的な富の源です。
「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。
また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。」
(「テモテへの第一の手紙」6章7節、口語訳)
人は何も持たずにこの世に生まれ、
同じく何も持たずにこの世から去っていきます
(「ヨブ記」1章21節)。
死んだ人がこの世にどれだけのものを残したのか考えてみましょう。
その答えは富者も貧者も等しく「全部」です。
この世から去る時には誰も何も携えて行くことはできません
(「詩篇」39篇7節、49篇18節、
「伝道の書」5章14節も参考になります)。
「金銭を愛することは、すべての悪の根である。
ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、
多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」
(「テモテへの第一の手紙」6章10節、口語訳)
ここで問題視されているのは金銭自体ではなく
金銭欲であることに注意するのが大切です。
金銭は現代社会では必要不可欠な交換手段なので、
金銭との関係をまったくなくすることはできません。
ある神学者が言ったように「この世的な信仰告白」は
「もっと多く!」という標語にまとめることができます。
金銭は麻薬に似たところがあります。
しだいに今までよりも多くの量が欲しくてしかたがなくなり、
しかもそれでも満足できなくなってしまうのです。
金銭の後を追いかけ回すのは塩水を飲み続けることに似ています。
飲めば飲むほど喉の渇きを覚えるようになるのです。
聖書には金銭欲で身を滅ぼした人々の例が数多く記されています。
アカンは自身の金銭欲のせいで
イスラエルの民全体に深刻な問題を引き起こしました
(「ヨシュア記」7章)。
イスカリオテのユダは銀貨三十枚の代価として
イエス様を敵に売り渡しました
(「マタイによる福音書」26章14〜16節)。
アナニヤとその妻サッピラは自らの強欲のせいで
神様から死刑の裁きを受けることになりました
(「使徒言行録」5章1〜11節)。
上掲の節のはじめの部分
(「金銭を愛することは、すべての悪の根である」)は
翻訳上の問題を含んでいます。
「すべての罪は金銭欲から生じている」とも解釈できそうですが、
パウロ自身はそのようには考えていなかったからです
(「ガラテアの信徒への手紙」5章17〜21節と比べてください)。
むしろ「金銭欲は諸悪の根源である」と訳した方が
パウロの本来の考えに近いでしょう。
人はいともたやすく創造主の代わりに被造物を崇拝するようになりやすい
ということを上節は私たちに思い起こさせます。
今まで扱ってきた「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節は、
神様の御国では金銭の使用について透明化されるべきである
ということを教えています。
隠し口座などがあってはならないのです。