2011年8月17日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第13回目の終わりのメッセージ

  
終わりのメッセージ
 
現代はおそろしい時代です。
絶え間ない戦争、募る不信と怒り、生活条件の悪化、実行に移される罪の悪質化など。悲惨と残酷の度合いが増していくばかりです。
多くの人は恐れにとらわれ深刻そうにこう言います、
「これらすべては迫り来る世の終わりを予告している」、と。
ある種の宗教的なメッセージを伝える人々は上述のような出来事に嬉々として飛び付き、終わりの時の「しるし」を描き出してみたり、眠り込まないように聴き手に警告したり、目を覚ましているように勧めたりしはじめます。
 
「目を覚ましていなさい」という勧告は、本当に必要です。
しかし、誰が「目を覚ましている」真のクリスチャンなのでしょうか。
時の「しるし」を深く研究して「終わりの日」の到来の前に起こる出来事を観察する人でしょうか。
終末の問題とたわむれて、さまざまなやり方でそれについての知識を溜め込む人でしょうか。
そうではないのは、確かです。
「目を覚ましている」ことの核心は、今日「罪の贖い主」であり「新しい命の与え手」である主に、日々避け所を求めることです。
主の中に、私たちは今日、文字通り「すべて」をいただいています。
すなわち、現代と未来をです。
 
もしも愛する親しい人を夜通し待っている場合には、そう簡単には眠り込んだりはしないものでしょう。
 
「最後の日」には皆が震え上がります。
しかし、弱々しい信仰者はこう言います、
「主イエス様、来てください!」。
たとえその時イエス様が「裁き主」として来られるとしても、主を信じる者たちはイエス様に親しみを覚えます。
十字架につけられ死者の中から復活されたキリストに避け所を求めることを通して、彼らは目を覚ましていたからです。
 
本当に他には何も要りません。
残された時間が少なくなればなるほど、よりいっそうはっきりとイエス様の恵みについて語るべきでしょう。
そうすれば、今よりももっと多くの人たちが目を覚ましているようになって、こう言うことでしょう、「主イエス様、来てください!」、と。
 
(ラウリ コスケンニエミ 「家では帰りを待っています」)
  
  
(「コリントの信徒への第一の手紙」を読むためのガイドブックはこれで終わります。)