2017年2月22日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(15〜16章)(その1)

終わりのメッセージ(15〜16章)(その1)

どうか私たちを「習慣的キリスト信仰者」としてください


「習慣的キリスト教」というと、
形式だけで内容を伴わないキリスト教信仰のあり方に聞こえます。
とても褒められたものではなく、
これほど最低の信仰生活はほかにないだろうとさえ思われます。
ちょうどアルコール中毒者をアルコールから解放する手助けをするようにして、
これほど気の抜けた信仰生活から脱却できるように
手助けする組織が必要なのではないか、
と思案するのがふつうかもしれません。

昔の私は実際このように考えていました。
「習慣的キリスト信仰者」とでも呼びうるこの哀れな連中に石を投げて、
説教台や福音伝道や話し合いの場から追い払うべきである、と。
一方では、
「習慣的キリスト信仰者」である「我々」は現代の疫病であり、
「我々」と一切の関係を断ち切る権利を他の皆が有している、と。

長い間にわたる経験に基づいて言えることですが、
例えば、朝の祈りのひと時や礼拝を通して私の魂は大いに昂揚し、
霊的な糧を得て満ち足ります。
そして、神様との親密な生活を送ることができます。

それにもかかわらず、
私は怠ける自分の性癖に対して、
朝の祈りのひと時や礼拝の習慣をきちんと守るように、
と命じなければなりません。

しばしば私は、
熟慮の上で生活に取り入れた習慣に従うように、
自らに強要しなければなりません。

仕事や話し合いの場からいったん離れて食事の席に移るとき、
私の心はいつも神様への感謝で満たされる、
というわけではありませんでした。
そうではあっても、
私はキリスト信仰者としての習慣に従い、
目の前に備えられた食事が神様からの善き賜物であることを、
祈りをもって告白したのでした。

(つづく)


レイノ・ハッシネン

2017年2月15日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 第13回目の質問


13回目の集まりのために

「ローマの信徒への手紙」1516

パウロはキリスト信仰者としての生き方に関する具体的な指示を、
キリストの示された愛の模範に依拠して書き記し、この章を閉じます。
彼はこれからの伝道計画を説明し、
最後に、ローマの教会の多くの信徒たちに、
彼らの名前を列挙しながら挨拶を送ります。

1)神殿から商人たちを追い出したイエス様、
ガラテアの教会の信徒たちに手紙を送ったパウロ、
両者ともに、
真理を人前から隠しておく態度はキリスト信仰者にふさわしい美徳ではない、
ということを明らかにしています。
その一方では、
「ローマの信徒への手紙」15113節が示しているように、
キリスト信仰者の真の役割とは「仕える役割」です。
このことは、主御自身が弟子たちに仕えてくださったことからわかります。
上記の二つの事柄は互いに相反するものなのでしょうか。
真理を他者から隠す臆病さと、
自分を他の人たちよりも重要だと見なす高慢さ、
という二つのうち、
私たち個々人に染み付いている罪の傾向は、どちらのほうがより当てはまるか、
考えてみてください。

2)パウロは伝道に燃えていました。
まだキリスト教が伝えられていない西ヨーロッパでの宣教がしたくて、
彼は夜も眠れないほどであった様が窺われます。
それに対して、私たち自身の伝道への情熱はどうでしょうか。
自分の周囲に対して福音を伝えるために、
また世界伝道のために、
私たちには何ができるでしょうか。
自分の生活のためには多くの費用をかけても平気なのに、
福音伝道のためとなると、
とたんに財布の紐が固くなるのはどうしてなのでしょうか。


3)「パウロは女性を憎悪していた」、という主張がなされることがあります。
「ローマの信徒への手紙」16章は、はたしてこの見方を支持するものでしょうか。

2017年2月10日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 16章17〜20節 異端の教えについての警告

異端の教えについての警告 161720


教会では、その始まりの頃からすでに、
使徒の言葉によってではなく自分の意見に基づいて
教える者たちが大勢いました。
「こういう教師たちによく気をつけるように」、
とパウロは教会員たちに厳しく警告しています。
たとえば、
これらの教師には教え話す能力が十分にはなかった、
ということが問題だったのではありません。
それどころか逆に、
彼らは美辞麗句を並べては純真な人々を欺き、惑わせていたのです。

私たちの生きる現代は非常に宗教的な時代です。
信仰によって治療を施す者たち、
諸霊の力を借りる者たち、
瞑想を教える者たち、
教会に新奇な教えを持ち込む者たちなどが
至る所にあふれかえっています。

「私たちは聖書から受けた教えを守らなければならない。
それ以外のことを教える者たちには耳を貸してはいけない」、
というのがパウロの指示の内容です。
これが現代人にとってどのような意味を持つものか、
考えてみなければなりません。

すべての宗教性がキリスト教的なものであるとは、もちろん言えません。
また、「キリスト教」の名の下に一般には流通していることすべてが、
神様の御言葉に従っているものとも言えません。
「羊の衣を着たオオカミに気をつけるように」、
とイエス様は弟子たちに警告なさいました。
「ローマの信徒への手紙」の学びをこの警告の御言葉で閉じたいと思います。

この手紙でパウロは、
キリストの福音を混ぜ物のない輝かしいかたちで提示しました。
その核心には、
「罪深い存在である人間はキリストの十字架の死のゆえにその罪を赦され、
神様に受け入れていただける者となる」、というメッセージがあります。
誰であろうと、何であろうと、
この宝を私たちから奪い去ることがあってはなりません。
それゆえ、私たちは神様の御言葉の真理の中に留まる術を学び、
御言葉を前にしてキリスト信仰者としての良心を活き活きと保てるよう、
神様にお祈りする必要があるのです。

2017年2月2日木曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 16章7節 ユニアスとアンドロニコ(その4)

ユニアスとアンドロニコ 167節(その4)


名前がユニアだったかユニアスだったかには関わりなく、
それがユニアヌスという名前から導出されたものだったのは、ほぼ確実です。
パウロは、この人物がユダヤ人であった、と言っています。
この人物はローマ人の名前をもっているので、
有名なユニウス家の奴隷だったとも考えられます。
例えば、ガイウス•ユリウス•カエサルを殺害した
マルクス•ユニウス•ブルートゥスはこの家系の出身です。
パウロの挙げたこの人物は、他の人の奴隷として売られ、
おそらく皇帝のおびただしい奴隷の群れに加えられ、
ユニアヌスと名付けられたのではないかと思われます。
この人物が後に奴隷の身分から解放されて自由の身になったのは、ほぼ確実です。
当時の一般的な慣習として、奴隷は30歳になると自由の身になれたからです。
これは、奴隷の老後の世話にかかる経済的な負担を
主人が免れるための措置でした。

この後どうなったかはまったくの想像ですが、
次のようなことが起きたのではないか、
と考える優秀な研究者(P. Lampe)がいます。
それによると、ほかでもなくフィリピで、
パウロは皇帝の奴隷たちや解放された元奴隷たちと知り合いになりました。
フィリピには奴隷や解放奴隷がたくさん住んでおり、
パウロ自身彼らと付き合いがあったことを記しています
(「フィリピの信徒への手紙」422節の
「カエサル(皇帝)の諸家に属する者たち」という表現に注目してください)。
そして、ユニアヌスとパウロは一緒に投獄されていた時期がありました。