2016年2月24日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 12章9〜21節 信仰は活動的な愛を生み出します(その5)

信仰は活動的な愛を生み出します 12921(その5)


困難な状況下にいたパウロのこのメッセージは
平和な社会に生きている私たちを恥じ入らせるものです。
キリスト教徒への迫害は現在でもなお世界各地で頻発しています。
それなのに、
私たちはそれらの迫害を気に留めない飽食の時代のキリスト教徒なのです。
心の平安が必要だと感じたら、
教会に行って気分転換をはかることもできるし、
家に帰ってくつろぐこともできます。
「私たちは「神様のもの」であるキリスト信仰者だからこそ
今にも誰かが我が家に火を放つかもしれない」
などと恐れる必要はありません。
これは経済的に豊かな社会で生きるキリスト信仰者に与えられた
特有の試練であるとも言えます。

この試練の中で私たちの愛ははたして存続していますか。
職場での険悪な人間関係の泥沼にはまっている人が
いったいどのくらいいますか。
近隣の人々といがみ合ったり冷たい関係だったりする人は
いったいどのくらいいるでしょうか。
また、家庭ではどうでしょうか。
家族が互いに対して自分の悪かったところを謝ったり、
罪を赦し合ったり、仕えたり、愛情を持って接したりしていますか。
それとも逆に、
腹を立てたり、文句を言って周囲をいらだたせたり、
自分でもイライラしたりしているのでしょうか。

12章の終わりにあるパウロの伝える御言葉は厳かな高貴さを湛えています。
大部分の人にとって、
それは内容のないうつろに響く言葉の羅列にすぎません。
しかし、本来ならそれは
各人が日常生活の中で実行して行くべきことがらなのです。
日々実践を積み重ねていくにつれて、 
罪に堕落した悪の世にも「神の御国」が根を下ろします。
少なくとも神様の御旨に従おうと努める時に、
私たちは「自分が罪深い存在であること、
それゆえに私たちの身代わりとして罪の罰を引き受けてくださった
キリストを必要としていること」を理解するのです。

2016年2月17日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 12章9〜21節 信仰は活動的な愛を生み出します(その4)

信仰は活動的な愛を生み出します 12921節(その4)


パウロは多くの適切な指示を与えるかたわら
「可能な限りキリスト信仰者は皆と平和を保ち仲良く暮らすべきである」
と説明します。
そして
「キリスト信仰者は受けた不当な仕打ちに対して
自分で復讐すべきではないこと」
を繰り返し強調します。

キリスト信仰者が受けていた迫害が
この指示に関連してパウロの念頭にあったのは間違いありません。
当時はまだローマ帝国全域にわたる大規模な迫害は始まっていませんでした。
しかし、
一般の人々のキリスト教に対する憎悪がいつどこで噴出してもおかしくない
緊張した一種即発の状態が続いていました。

このような状況下でもパウロは
キリスト信仰者に平静さを保つよう要請しています
悪に対しては悪をもって報いてはいけません。
私たちはオオカミの群れの只中にあっても、
自分までが吠え猛るオオカミになってはいけないのです。

私たちはいかなる状況においても神様の下される裁きに委ねるべきです。
神様は正義の裁き司であり、裁く権利を保持する唯一の存在です。
「善をもって悪に勝つ」のがキリスト信仰者のやるべきことです。

2016年2月12日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 12章9〜21節 信仰は活動的な愛を生み出します(その3)

信仰は活動的な愛を生み出します 12921節(その3)


「愛すること」と「神様の戒めを守ること」とは
互いに正反対のこととみなされがちです。
また、こうした考えかたに基づいて
聖書をあたかも法律書のように読む人たちもいます。

「愛がそれを要求する場合には
神様の戒めを踏み越えて行動してもかまわない」
と理解する人々もいます。
後者の考えかたにはいろいろと正しく良い点もあります。
愛は法律の条文をめくるようなものではないからです。
愛は仕えるものであり、
新しい機会をたえず利用して隣り人を助けようとするものです。
聖書の文言をあれこれ調べるだけでは、
たんなる道徳主義とさほど変わるものではありません。
そこには、自らを捧げる真の愛が
まだ欠けているともいえるかもしれません。

そうであっても、
「神様の御言葉」と「キリスト教に基づく愛」とを
互いに切り離して対置するのは危険なやりかたです。
神様は私たち人間よりもはるかに賢く大いなるお方である、
と私たちキリスト信仰者は信じています。
私たちは神様の御言葉と戒めに結びつけられているのです。
それらを踏み越えてはいけません。
また、
「あえてそうすることで他の人々をよりよく愛することができる」
などと思い込むべきでもありません。
神様の定めた一連の善い規則(ルール)は
私たちの愛のありかたを示し導いてくれるものなのです。

私たち人間が自分の愛に対して取れる程度の責任とは
比較にならない忠実さで神様は御言葉、
すなわち御自分が命じられたこと(律法)と約束されたこと(福音)
について責任を取ってくださるからです。

2016年2月5日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 12章9〜21節 信仰は活動的な愛を生み出します(その2)

信仰は活動的な愛を生み出します 12921節(その2)

パウロのこの手紙がようやくこの段階になって
「キリスト信仰者の生き方」について語っている理由を
私たちはここで理解します。

彼らの喉は開いたままになっている墓です。
彼らはその舌で人を欺き続けています。
彼らの唇の下にはまむしの毒があり、
彼らの口は呪いと苦々しい言葉とで満ちています」
(「ローマの信徒への手紙」31314節)。

このような人間の状態は
キリスト信仰者にふさわしいものではありません。
しかし実は、もともと私たちはこのような者なのです。
それでも、私たちの中に住んでおられるイエス様は
私たちの心の中に真の愛を注ぐことができます。
このことが実現するのは、
イエス様が私たちから石の心を取り除き、
その代わりに肉の心をくださった後です。
この「石の心」と「肉の心」という表現は
旧約聖書の「エゼキエル書」に由来しています。

「そして、私は彼らに一つの心を与え、
彼らの内に新しい霊を授け、
彼らの肉から石の心を取り去って、肉の心を与えます」
(「エゼキエル書」1119節)。

イエス様が私たちを愛してくださっていることを
実際に見ることができた後で、
ようやく私たちは他の人たちに仕えることができるようになります。

2016年2月1日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 12章9〜21節 信仰は活動的な愛を生み出します(その1)

信仰は活動的な愛を生み出します 12921節(その1)


キリスト信仰者にふさわしい愛を保つことを主要な目的とする
数多くの指示をパウロは与えています。
私たちもまた「こうしなさい、ああしなさい」と
互いに指示を出し合うことができます。
しかしその際、ある特定の規則や義務ばかりが念頭にあるのなら、
まだ私たちは神様の望まれるようには生きていません。

他の人々に対する愛が私たちの心の中に芽生えた段階になってようやく、
私たちは「神様の特派員」としてこの世の中で活動するようになるのです。

その時には、私たちは
「やらねばならないのか」とか「こうするほかないのか」などと
考えたりはしません。

その時には、
私たちの心の中にはイエス•キリストが住まわれて
私たちの隣り人に対して率先して奉仕してくださるからです。

このような愛は、 
キリスト信仰者としての兄弟姉妹の温かな愛情と
他の人たちを尊重しようとする態度とを
私たちの心にもたらします。