2015年8月24日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 第8回目の質問


8回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」8

パウロは、私たちと神様との間の関係の基いである、
キリストがその御業によって獲得された恵みについて、
あらためて取り上げています。
そして、神様の御霊による助けと希望について思い起こさせ、
人間の力の及ばない偉大なる神様への賛美をもってこの章を閉じます。

1)「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある人々には、
滅びの宣告が下されることがありません」(81節)。

天の御国はゴルゴタのところでは開かれているが、
他の場所では固く閉じられている、
と昔から言われています。

しかしながら、多くの人々の宗教観によれば、
神は山のような存在にたとえられています。
そして、頂上に向かう山道はたくさんあり、
キリスト教はそのうちの一つに過ぎない、
とみなされています。

この両者の観点は、はたして調和できるものでしょうか。

2)近年では、
聖霊様を話題にするのを躊躇するキリスト教徒が多いようです。
聖霊様について誤ったイメージが一般に広まってしまった結果、
聖霊様について正しく語ることさえはばかられる状態になっている、
ということなのでしょうか。

実際には、聖霊様は教会への最高の贈り物なのです。
御霊みずから、言葉にならない切なるうめきをもって、
私たちのために執り成しの祈りをしてくださる」(826節より)、
ということに私たちは気がついているのでしょうか。
聖霊様が私たちの助け主であることを、
どのようにすれば学ぶことができるのでしょうか。

3)パウロの賛美の歌(3139節)は、
神様の知恵と選びについての賛美だと言えます。
神様による選びをめぐる問題は、
私たちにとってはしばしば理解するのが難しく思われるものです。
人が神様の御許に来てそこに留まる可能性とは、
いったいどのようなことなのでしょうか。
人が福音を捨てた場合に、その責任を負うのはいったい誰なのでしょうか。
この問題のゆえに、人は神様を批判し裁くことができるものなのでしょうか。

2015年8月19日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 8章31〜39節 いったい誰が、神様に属する人々を責めることができましょうか?


いったい誰が、神様に属する人々を責めることができましょうか? 
83139
 
パウロは神様を賛美する素晴らしい歌でこの長い章を閉じます。
神様の子どもとして生きることほど
安全な生き方はこの世には他に存在しません。
神様はその御子を惜しまずに、十字架の死に渡されました。
それほどまでに、私たちを愛してくださっているのです。

この箇所でパウロは、アブラハムについて語っています。
神様はアブラハムを厳しい試練へと導かれました。
それを通して、彼が神様を他の何よりも愛していることを確認なさいました。

神様は罪深い存在である私たち人間を
キリストの血によって御自身と和解させてくださいました
私たちを神様がいかに熱く愛しておられるか、
ゴルゴタの出来事(イエス様の十字架刑)を通して見ることができます。
このことを信じる時、
いったい私たちを脅かすものが何かありましょうか。
いったい誰が神様に反抗できましょうか。
キリストが私たちのために祈っていてくださるのに、
いったい誰が私たちを地獄に突き落とすことができましょうか。

迫害が起ころうと、苦しい目に遭おうと、困難や危険に遭遇しようと、
それらの出来事は、
主に属する人々が輝かしい勝利を収める様を
いっそう際立たせていく結果になるからです。
いかなるものであれ、
キリストの十字架に示された神様の愛から、
私たちを引き離すことはできません。


ルターはある時、
ローマ•カトリック教会から異端として除名され、
神聖ローマ帝国からも身辺の保護を一切受けられない
窮地に立たされたことがあります。
教会の中にも帝国の中にもいられないそのような状況の下で、
いったいどこで生きて行くつもりか、
ときかれたルターは、
「神様の天の下で生きて行く」、と答えたそうです。
神様の守りの中から御旨に反してルターを奪い去ることは、
誰にも決してできないからです。

2015年8月14日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 8章18〜30節 困難な状況の下での希望(その3)


困難な状況の下での希望 81830節(その3)


(ルター派の)多くのキリスト信仰者は、
聖霊様についての話を避ける傾向があります。
そのような時には、
「御霊は、神様としてふさわしいやり方で、
聖徒たちのためにとりなしの祈りをなさっています 」(827節)、
という御言葉を思い出しましょう。
真の平安をくださるこの素晴らしいお方が、聖霊様なのです。

私たちが神様とその御霊の守りの中にある時、
あらゆる出来事が共に作用して結局は私たちの最善となっていくようにと、
神様は取り計らってくださいます。

何事も、私たちを神様の御手から引き離すことはできません。
私たちが神様を選んだのではなく、
神様が私たちを選んでくださったからです。

2015年8月5日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 8章18〜30節 困難な状況の下での希望(その2)


困難な状況の下での希望 81830節(その2)
  

パウロによれば、
このような困難を抱えているのは何も私たちだけではありません。
被造物世界全体が、
神様の子どもたちが栄光に包まれて現れ
新しい天と地が創造される日を待ち望んでいるのです。
それと同様に私たちも、
ため息とともにこの希望が実現するのを待ち続けています。

今この文章を読んでいる皆さんは、
ここで私が天国への望郷の念について語るのを
わかってくださるのではないでしょうか。
この思いは、時として私たちの心を強く揺さぶります。
「自分はこの世に属していない」ということを実感する場合があります。
主を信じつつこの世を去った
愛しい親戚、友人、知人たちとの天国での再会を待ち望む時に、
私たちの心は天の御国への郷愁にかられます。

私たちには忍耐が必要です。
まだ私たちは(見えないものを信じる)信仰の中に生きており、
天の御国を実際に見ることはできないからです。
イエス様が教会と御自分の民にくださった最高の贈り物が、
今の私たちを守っています。
この贈り物とは、聖霊様のことです。

慰め主なる聖霊様は、
私たちが自分を孤児だと勘違いして孤独で苦しまないように
守護なさっています。

私たちがどうにも祈ることができない時、
聖霊様は、声にならないため息と共に、
私たちのために祈ってくださいます。