2014年10月31日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 6章1〜4節 聖めの基としての洗礼(その2)


聖めの基としての洗礼 614(その2)


これら数節には、
自分の罪に苦しめられている人たち全員に向けられた
素晴らしい慰めが含まれています。
あなたは弱くてだらしないキリスト信仰者かもしれません。
もしかしたら、あなたの生き方は誰の模範にもならないかもしれません。
ひょっとしたら、あなたは人生の意味をすっかり見失っているかもしれません。
それでも、あなたが洗礼を受けている、という事実を思い出しなさい。
これは、
神様があなたを御自分の子どもになさりたかった、
という事実をはっきり示す素晴らしい証拠なのです。

あなたは神様の側に属しています。
なぜなら、神様は、
あなたが御自分のものとなるように、
あなたに洗礼を授けてくださったからです。
洗礼は、神様が私たちに示してくださった大いなる恵みなのです。

それゆえ、
もしも神様のこの御業(幼児に洗礼を授けること)を
取るに足らないものとみなして、あとから洗礼を再び受けるなら、
それは実にひどい行いなのです。
「エフェソの信徒への手紙」45節に従って、私たちは、
「主は御一人、信仰は一つ、洗礼も一つです」、
と信仰告白します。

神様の御業を人間がやり直す必要はまったくありません。

2014年10月24日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 6章1〜4節 聖めの基としての洗礼(その1)


聖めの基としての洗礼 614節(その1)

前回に述べた誤解を解くために、パウロは洗礼について説明し始めます。
パウロはローマに行ったことがなく、
そこの教会の状態についてもよく知りませんでした。
しかし、教会のすべての人が洗礼を受けていることは、
パウロにとって自明でした。
洗礼は、キリスト教信仰の始めからあったことなので、
洗礼を擁護する弁舌を振るう必要がなかったのです。


洗礼の意味について、パウロは短く説明します。
洗礼を通して、私たちはキリストに結わえられます。
この関係は生死を共にする深い絆です。
洗礼はキリストの死に結わえられることでした。
私たちは洗礼を受けた時に、キリストと共に埋葬された、
とパウロは言います。
彼が言う「古い人」とは、洗礼を受ける前の私たち人間の状態のことです。

この古い自分が十字架につけられ、ゴルゴタでイエス様と共に死んだのです。
神様がイエス様を死者の中から復活させたので、
イエス様と同じようにして、私たちもまた、
いつか必ず死者の中から復活することになります。
私たちの罪は、キリストの死を通して、
その罰をすでに受け、帳消しになっています。
洗礼は、この贖いの御業が私たちにも確実に適応されるようにしてくれます。

2014年10月15日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 6章 はじめに(その2)


洗礼と聖め

「ローマの信徒への手紙」6

はじめに(その2)

ここでパウロは、起こりうる誤解について触れます。
それは、
もしも神様の恵みが、私たちが罪を行う度に、
ただひたすら大きくなって行くものだとしたら、
どうして罪を行わないでおく手があろうか、
という間違った理解です。

この上、何のために罪と戦うのか。
どのようなことが罪で、どのようなことが罪ではないか、
吟味する必要が本当にあるのか。
そんなことをすれば、神様というお方を、
私たち人間の些事を詮索する小心者と見なすことになりはしまいか、
といった考え方です。

すでにパウロの時代にも、多くの人が
福音の与える自由というものを、
自分が好き勝手に生きる自由として理解していたようです。
多くの箇所で、パウロはこのような理解の仕方に反対しています
(例えば、「ローマの信徒への手紙」38節を参照してください)。

アブラハムは信仰によってではなく、行いによって義とされた、
という「ヤコブの手紙」のよく知られた箇所(2章21〜23節)は、
ここでの「罪との戦い」に関係しています。

自分をパウロの弟子と見なす者たちの中には、
神様の尊い恵みを実質的にはゴミ同然なものに貶める
自堕落なキリスト教徒の生き方をして、悪い模範を示す人々もいました。