2014年3月31日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 2章12〜16節 神様の御旨を知るだけでは無益です

  
神様の御旨を知るだけでは無益です 21216


神様にとっては、
人が御旨を実行していることを自覚しているかどうかはどうでもよく、
人が御旨を行うことこそが大切である、
という印象を私たちは受けます。
人が神様の御旨を知っていながらも、それに従わないならば、
どのような益がありましょうか。
このように、ユダヤ人もまた、結局のところ、
異邦人と同じ舟に乗っている立場にあるのです。
神様から彼らが受ける質問は、
神様の聖なる御旨を知っていたかどうか、 ではなく、
彼らがそれに従ったかどうか、ということです。


私たちキリスト信仰者が、
ユダヤ人に対するパウロのこの厳しい言葉を、
口元に微笑を浮かべて聞き流すことはできません。
まったく同じ言葉が、私たちにも向けられているからです。 

神様のことを気にもかけないこの世の人々のほうが、
実は私たち信仰者よりも善良で親切だ、
と思ったことがありませんか。
信仰者と比べて、彼らは他の人たちについて、
もっとよく気がきいたり、あまり悪口を言わなかったり、
より素早い助けを差し伸べたりすることがあるかもしれません。

本来、私たちは、
神様が共にいてくださることを、この世に告げ広めて行くような愛を、
自分でもよく知っているべきなのです。
ところが、
神様の御旨を知っていながらも、それに従わないとしたら、どうでしょう。

2014年3月28日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 2章1〜11節 律法の救いの道(その2)


律法の救いの道 2111節(その2)



人々がどれほどひどい生き方をしているか、
自分がユダヤ人でなくともわかることです。
世の中がどんどん変わって来ています。
今まで美徳とされ尊敬されてきたことがゴミ箱に放り込まれてしまい、
その代わりに、
最も軽蔑すべきはずのことが最高の徳としてもてはやされている、
と感じている人々もいます。
彼らの指摘は正しいでしょうし、
パウロがこの手紙を書いた当時のユダヤ人も、
彼らと同じような視線を、
異邦人の放縦な行いに対して向けていたことでしょう。
ところが、
ここでパウロは批判の銃口を異邦人以外にも向けます。
他の人々の罪や欠点を見てあげつらっているだけでは不十分なのです。
他の人々の欠点をとがめる人自身にこそ、
神様の御旨に従って生きて行く義務があるからです。
もしそうしないなら、その人は実に変な存在だと言えるでしょう。
なぜなら、その人は、
傍らから他の人々のひどい行いを目にしていながら、
自分自身もまた同じことを、
もっと洗練され落ち着き払ったやり方ではあれ、
行っていることになるからです。
このような、
表面だけ取り繕って、自分が義しいと見せかける態度は、
神様の怒りを招きます。

人間は、他の人々よりも自分のほうがより優れている、
と心のどこかで思う傾向があります。
しかし、実際には、
その人も他の人々と全く同じく罪に塗れた存在なのです。
神様は、こうした偽善的な態度を容認してくださるものでしょうか。
「神様の御前では、人は外面で判断されることがありません」(211節)、
と聖書は教えています。

2014年3月26日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 2章1〜11節 律法の救いの道(その1)

 
律法の救いの道 2111節(その1)
  
 

パウロはわかりやすく律法の救いの道を描いています。
この道は、私たち人間に特有の考え方です。
私たちは、普通いつもこの道を歩いている、
とさえ言えます。
自分のことをキリスト信仰者であるとは思っていない人々もまた、
というより、
彼らこそが、この道を邁進している者である、
と言うことができます。

この道の教えを簡単にまとめれば、
神様はそれぞれの人に対して、その人の行いに応じて報いをなさる、
というものです。
善を行った者は、 輝く栄光と永遠の命を神様からいただきます。
しかし、
神様の御旨を破る者は、悩みと苦しみを受けることになります。
これは、徹頭徹尾、行いの律法です。
神様があなたに報酬を支払うか、それとも、罰を下すか、は、
あなたが神様の御心に適う生き方をして来たかどうかによって決まる、
という考え方です。

2014年3月24日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 2章 ユダヤ人たちの罪の内実は、私たちとどのような関わりがあるのでしょうか? 


ユダヤ人たちの罪の内実は、
私たちとどのような関わりがあるのでしょうか?



ユダヤ人たちの罪の内実について調べて説明するために、
なにもここでわざわざ長い講義をする必要はないだろうに、
と訝しく思う人もいるかもしれません。
自分の抱えている罪だけでも手に余る私たちの生活にとって、
この話題は、疎遠に感じられるものかもしれません。
しかし、新約聖書がキリスト教会のことを、
神様の新しいイスラエル、としばしば呼称していることを、
私たちはここで思い起こさなければなりません。

神様から、
善を行うように、という奨励と、
悪を避けるように、という警告を受けてきた存在として、
イスラエルは、私たちに先立つ具体例である、と言えます。

イスラエルは、
神様の怒りを我が身に招き、多くの懲らしめを受けました。
もしも新しいイスラエルが、
古いイスラエルと同じように、 神様に反抗しようものなら、
神様は、
彼らに対しても決して優しく応接なさることはないだろう、
とパウロは注意を促しています。

古いイスラエルの民(ユダヤ人)の過ちから、
私たちは教訓を学ばなければなりません。
ですから、
「ローマの信徒への手紙」2章は、
正確を期して読解されるべき章なのです。