2012年9月28日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 21章9~21節 新しいエルサレム(その2)



新しいエルサレム 21921節(その2)
 

 
ヨハネは都の長さと幅と高さの寸法を測るよう命じられました。
以前にもヨハネは同じ任務を与えられました。
すなわち、11章で彼は
「神様の神殿と祭壇とそこでひれ伏して祈っている者たち」
のことを測るように命じられました(「ヨハネの黙示録」111節)。
そして、その箇所の説明で、
「ゼカリヤ書」に触れました(「ゼカリヤ書」215節)。
その際に、この「測る」という行為には、
たんに長さを正確に知る以上の意味が含まれていることを指摘しました。
「測る」という行為には、
保護されるべく目印をつける、
という意味合いがあります。
この21章の箇所でも
それと同じ意味でこの言葉が用いられていると思われます。
新しいエルサレムは神様の守りの中にあり、
それゆえ、いかなる災いもそれを襲うことがありません。
神様が都をあらゆる悪から守ってくださるので、
その幸いは永遠に続きます。
  
ヨハネは測量の結果を報告します。
都は立方体であり、
その一片の長さは12000スタディオン(約2300キロメートル)でした。
都はとてつもなく大きいわけです。
ヨハネが私たちに伝えたいことは、
都の寸法自体よりも、むしろ都の巨大さと壮麗さだと思われます。
都は万人の想像を超えた規模のものだ、ということです。
都の城壁の高さも同じことを示しています。
それは144キュビット(約72メートル)もあります。
当時の普通の都の城壁の高さは数メートルにすぎませんでした。
この箇所でヨハネが報告している数字(12000144)は
どちらも12で割り切れる数です。
こうして再び
イスラエルの12部族と12使徒が想起されていることになります。

2012年9月26日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 21章9~21節 新しいエルサレム(その1)


 
新しいエルサレム 21921節(その1)
  
 
天使がヨハネのもとに来て小羊の妻を見せます。
「小羊の妻」は
新世界に入れていただいた「キリストのもの」なる人々の群れ
を意味していると思われます。
ヨハネは新しい都の様子を描き出します。
前にも言ったように、
ある目的のためにヨハネはそうしているのです。
目的地に到着して歓喜する教会と新世界とは
非常に密接な関係にあるので、
それらについては一緒にして語られるのだし、
同じ名で呼ばれるわけです。
  
ヨハネは
目にしている光景を言葉であらわすことに困難を覚えます。
彼は新しいエルサレムを光り輝く宝石にたとえます。
神様が都にお住いになっているため、都は光を発散しています。
新しいエルサレムの建築には
12という数字が分かちがたく結びついています。
選ばれた民は12の部族に区分されていました。
そして、それぞれの部族の族長の名前が
都の12の門に書き込まれています。
都の城壁には12個の礎石があり、
そこには12人の使徒の名が記されています。
このことは、
神様の御計画には「旧約と新約」という
二つの段階があったことを想起させます。
人類を救うために神様が何をしてくださったのか
について新世界でも銘記されている、ということです。
門のイスラエルの12部族の名と城壁の12使徒の名は、
そのことについて語っているのです。

2012年9月24日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 21章1~8節 新天新地(その3)



新天新地 2118節(その3)



「ヨハネの黙示録」のはじめの部分で、
神様が「私はアルファでありオメガである」と言われるのを、
ヨハネは聴きました(「ヨハネの黙示録」18節)。
神様からすべては始まり、神様へとすべては終わる、ということです。
今ヨハネはこのことを目にしたわけです。
この世が神様の御手を振り切って暴走したことは、
いまだかつて一度もありません。
すべては神様の御計画の通りに進んできましたし、
神様の御心を実現するために役立ってきました。
神様は世界を造りまた保っておられる方であり、
「時が来た」と判断なさったときに、この世を終わらせなさいます。
  
最後の裁きの後で起こりうる二つの出来事について、
御座から聞こえてくる声は語ります。
「命の水」を欲する者は皆、それを賜物としていただきます。
神様の賜物、新世界での永遠の命、がすべての人々に差し出されます。
それを受け入れる人は、それをいただき、
全能の神様が「御自分のものたち」の間にいらっしゃる場所に、
いつか彼ら自分も共にいれるようになるのです。
それから声は、
起こりうるもうひとつの出来事について注意を喚起します。
それは「第二の死」と呼ばれ、火の湖として描き出されています。
それは、
活ける神様に仕えることをせず、
その態度が生活の中に出ていた人々の受ける分なのです。
神様がおられるところに入るか、
あるいは、悪魔のいるところに落ちていくか、
この二つの可能性しかないことを、
神様御自身が語っておられます。

2012年9月21日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 21章1~8節 新天新地(その2)


 
新天新地 2118節(その2)
 

 
それからヨハネは新しいエルサレムを見ます。
「新しいエルサレム」は、
神様が「大いなる祝宴」のために清め整えてくださった
「キリストの教会」を意味しているものと思われます。
19章には、
新世界で挙式されることになる
「小羊の婚礼」についての記述がありました。
その箇所では「神様の教会」は、
清く輝く麻布の衣に身を纏う「花嫁」として描き出されていました
(「ヨハネの黙示録」1978節)。
「新しいエルサレム」は「天国の都」、
すなわち新世界の中心のことも意味しています。
これについては10節から始まる箇所に書かれています。
おそらくヨハネは「新しいエルサレム」という言葉で、
「天国に入った神様の教会」と
「新世界の都」という二つのことを意味しています。
これらは互いに密接に関係しているため、
両方とも同じ名で呼ぶことができるのです。
  
ヨハネは御座から発せられる神様の御声を聴きます。
その声は、新世界がどのような場所か、説明します。
神様は御自分に属する人々の真ん中に住んでおられます。
そのおかげで、そこにあるのは素晴らしくよいことばかりです。
新世界に入った者は悲しみも死も痛みも苦しみも感じません。
新世界は罪に堕落したこの世とはまったく異なっています。
この世では罪があらゆるところに入り込んでいるので、
罪の全然ない生活というのは、想像するのも難しいほどです。
新世界では罪が存在しないため、
そこでの生活はこの世での生活とは非常に異なっています。
戦争はなく、
私利私益の追求もなく、
愛に欠けた行動もなく、
人を傷つける言葉もなく、
悪い考えすら浮かぶことがありません。
永遠の命は罪のない命であり、
それゆえ、それは実に驚くほどよいものです。

2012年9月19日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 21章1~8節 新天新地(その1)


「ヨハネの黙示録」21

新天新地 2118節(その1)
 

この世は、
天地創造(「創世記」12章)に始まり、天地創造に終わります。
神様は、今存在する悪と様々な点で腐敗した世界とを滅ぼされます。
そしてその代わりとして、
新しい天と新しい地を、すなわち「新しい世界」を創造なさいます。
聖書がこの新たな創造について語っているのは、
この箇所だけではありません。
すでに旧約聖書が同じことを約束しています(「イザヤ書」6517節)。
また「ペテロの第二の手紙」には次のように書かれています、
「主の日は盗人のように到来します。
その日には、天は轟音を立てつつ消え去り、天体は焼けて散逸します」
(「ペテロの第二の手紙」310節)。
聖書の最初の二つの章には、楽園についての描写があります。
それによると、
被造された世界は元々は清くて瑕の無いものでした。
人の生活は快適で、人と造り主との関係は良好でした。
今ヨハネが目にしている光景には、それと似ている点が多くあります。
神様は新しい世界を創造なさいます。
その世界は、少なくとも、
かつてあった楽園と同じくらい不思議な世界です。
  
1節によれば、
新しく創造された世界には海がありません。
「海」は、
聖書の幾つかの箇所では「死と悪の象徴」となっています。
「新世界には海がない」ということは、
そこには死もその他どのような悪も存在しないこと
意味していると思われます。
死も悪も、
罪の堕落が起こった後の古い世界に属することがらであり、
それらを神様は、
新世界を創造なさった時に滅ぼされたのです。
新世界における命は終わることなく続きます。
そこではもはや誰ひとり
悪の果実を味わうことにはなりません。
   

2012年9月17日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第12回目の終わりのメッセージ



終わりのメッセージ

目を覚ましていましょう
  
 
眠るのは気持ちがよいものです。
よく眠れた夜の後には仕事がはかどります。
逆に、よく眠れないと生活が大変になります。
  
しかし、目を覚ましていなければならない時というのもあります。
疲れて夜遅く車を運転するのは危険です。
ハンドルを枕にして居眠りしたりしないように
あらゆる手段を講じなければなりません。
私のある同僚は運転中に眠ってしまい、衝突事故で死にました。

霊的な眠気は影のように私たち皆に寄り添っています。
まさにこの点で、
私たちは自分自身に「恵みの時の短さ」について
思い起こさせる必要があります。
眠っているときには、時間の感覚がなくなります。
それと同じように、
霊的に眠り込んでいるときには、
「恵みの時」の感覚がなくなってしまうのです。
そして、「夜明け前」には一番眠くなるものです。
  
自分にとって大切で、かけがいのない方を待っている場合には、
眠くはなりません。
鞭打つことによっては、霊的に目を覚ましているようにはできません。
そのためには、あの方が必要になります。
私は「この方のもの」だからです。
そして、私はこの方のことを、何度も、繰り返し、必要としています。
  
救い主は私たちを「御自分のもの」として買い取ってくださいました。
ですから、私たちも目を覚ましていようではありませんか。
  
  
(ラウリ コスケンニエミ 「今日私と共にいてください」)

2012年9月14日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第12回目の質問(20章)


 
12回目の集まりのために

「ヨハネの黙示録」20
  
 
ヨハネは千年王国についての幻を見ます。
おそらくこの幻は、
「神様のもの」である人々が死んだ後にどのような場所に入るか、
について語っています。
ヨハネには悪魔の最後の攻撃とその結末がもう一度示されます。
この章は最後の裁きの描写で閉じられます。
全員が裁きを受け、
イエス様に反対していた者たちは皆、
悪魔が落ちる場所に落ちて行くことになります。
  
  
質問

1)「千年王国」とはどういう意味ですか。
2016節の説明を参照してください。
千年王国について、どのような説明をあなたは聞いたことがありますか。
「第一の復活」(2045節)とはどのようなことを意味していますか。
この幻の私たちへのメッセージは何でしょうか。
  
2)悪魔は最後にどうなるでしょうか。
悪魔の手下たちはどうなりますか。
地獄には終わりがあるのでしょうか。
誰がそこに落ちることになりますか。
  
3)最後の裁きとは何ですか。
人はそれぞれ「自分の行いに応じて」裁かれる、
というのはどういう意味でしょうか。
最後の裁きで救われるのは誰でしょうか。
  
4)最後の裁きという考えは、あなたにとって恐ろしいものですか。
どのようなことが、こうした恐れを取り除いてくれるでしょうか。

2012年9月12日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章11~15節 最後の裁き(その2)


 
最後の裁き 201115節(その2)
  

  
「人は各々、自分自身の行いに応じて裁かれる」、
とヨハネは言います。
これはしかし、
「イエス様を信じる者は救われる」、
と私たちが言うことと矛盾しているのでしょうか。
矛盾はありません。
最後の裁きにおいて、
世界中の人間全員が自分自身の行いに応じて裁きを受けます。
罪のない人は一人もいないので、
人は皆、自分の悪い行いを神様に見せなければならなくなります。
救い主をもたない人々は、
自分自身の罪と共に神様の御前に出なければならず、
彼らはそれら罪のゆえに裁きを受けるのです。
罪を帳消しにしてくださったお方が避け所になっている人々に対しては、
神様の御前では「罪がない」のです。
すべての罪はイエス様のゆえに赦されており、
神様が赦してくださったことは、神様の目にはもう入らないからです。
信仰を通してイエス様を「自分の主」として迎え入れ、
イエス様を通して神様の恵みをいただいている人だけが、
最後の日に神様の御顔の前で耐えることができるのです。
「行いに応じて裁きは下される」
(「ローマの信徒への手紙」26節)とパウロも書いていますが、
彼は、
「イエス様に避け所を求める人だけが救われる」
(「ローマの信徒への手紙」32326節)とも教えています。
   
ルターは、「喜ばしい交換」について語っています。
それは次のようなことです。
イエス様は、
私たちの罪と、それゆえに私たちが当然受けるべき罰とを、
肩代わりしてくださいました。
これらすべてを私たちはイエス様に譲り渡したのです。
イエス様は私たちに
御自分の無垢さ(罪のまったくないこと)と
清さと聖さを与えてくださいました。
私たちは「イエス様のもの」であるときに、
イエス様の本性とみわざとの善さすべてを「自分のもの」としています。
私たち自身の悪さと悪い行いは、イエス様に譲り渡されています。
神様が「キリストのもの」である人をご覧になるとき、
神様は御子の聖さと善きみわざのみに目を留められます。
こういうわけで、
「イエス様のもの」である人には、
裁きを受ける原因となるような「悪い行い」はないことになります。
それら悪い行いは、イエス様の善きみわざに取って代わられるからです。

救い主を受け入れないままで裁きを受ける人々には、
残念な結末が待っています。
彼らは聖なる神様の御前で耐えることができません。
彼らには最悪の裁きが下されます。
彼らは「火の湖」、つまり悪魔がいるのと同じ場所に投げ込まれます。
自覚はなかったのかもしれませんが、
彼らはこの世で「悪魔のもの」であるグループに所属していたのです。
彼らの受ける罰は、彼らの親分が受けるのと同じものです。
 

2012年9月10日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章11~15節 最後の裁き(その1)


 
最後の裁き 201115節(その1)
  
 
ヨハネに最後の裁きが示されます。
彼は、神様が御座におられ、
すべての人間が全能者の御前にいるのを見ます。
「命の書」が開かれ、
そこに記されていることにしたがって全員が裁きを受けます。
誰一人この裁きを逃れることはできません。
ヨハネの時代に、また後の時代にも、長い間にわたって、
海で死んだ者は海に埋葬されました。
彼らもまたよみがえって裁きを受ける様子を、ヨハネは見ます。
海の記述についてのもうひとつ可能な解釈は、
海は死をあらわしている、というものです
(「ヨハネの黙示録」211節と、その説明を参照してください)。
死んだ後に天国に入れなかった人々の魂は、
ヨハネが
「死」(ギリシア語でタナトゥス)、
「黄泉」(ギリシア語でハーデース)
と名づけている場所に行きました。
この場所もまた、死者たちを最後の裁きへと引渡します。
全人類が神様の御座の前に立ち、裁きが始まります。
  
私たちが使徒信条で信仰告白する「身体のよみがえり」の瞬間を、
ヨハネはここで描いています。
人は死ぬ時、魂と身体が分離します。
身体は墓に横たえられますが、魂はそこには残りません。
最後の日には身体と魂は再び一体になります。
神様が与えてくださった身体に包まれて、
私たちは神様の裁きへと歩み出ます。
最後の日には、
イースターにイエス様の上に起こったのと同じことが、
人間一人一人の上に起こります。
墓は空になり、イエス様の魂は「復活の身体」をまといました。
パウロは「復活」について、
「コリントの信徒への第一の手紙」15章で、より詳しく語っています。
 

2012年9月7日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章7~10節 最後の戦い(その2)


 
最後の戦い 20710節(その2)

 
 
最後の戦いは激しいものになります。
悪魔は多くの者を味方につけ、
戦争に勝つためにありとあらゆる手段を講じます。
ヨハネは戦いを詳細に描いたりはしませんが、
その最終結果については報告しています。
すなわち、
天から火が降ってきて、悪魔一党を打ち砕くのです。
イエス様は勝利者となり、
その日には悪魔が最後の戦いで敗れたことを皆が知ります。
この世の終わりが来て、悪魔は地獄に投げ込まれます。
この地獄は「火の湖」と名付けられています。
そこにはまた悪魔の手下たち、獣、偽預言者がいます。
彼らの苦しみは絶えることがありません。
悪魔は一味もろとも自分自身の悪行の報いを受けます。
その報いとは、永遠の死です。
  
「地獄には終わりがないわけではない。
地獄は一定期間続いて、
その後は地獄に落ちた者たちは存在しなくなるのだ」、
と主張する人々がいます。
しかし、聖書はそれとはちがうことを教えています。
天国は永遠であり、地獄もまたそうなのです。
ヨハネは地獄を描くときに、
「昼も夜も、世々限りなく」
という言葉を用いています(2010節)。