2012年8月31日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章1~6節 千年王国(その3) 


  
千年王国 2016節(その3) 
  
  
千年王国の描写には第三の解釈も可能です。
それは、
この幻は神様の御許なる天の御国を描いているのではないか、
というものです。
「ヨハネの黙示録」12章で語られたように、
サタンは天国から投げ落とされました。
それでヨハネは、
「サタンは捕縛され、深淵に投げ込まれた」、
という言い方をしたのかも知れません。
4節でヨハネは、
「キリストのもの」としてこの世を去った人々の魂を見た、
と言っています。
そして、「彼らは主と共に千年間支配する」、とも言っています。
「神様のもの」として人が死ぬとき、
その人の身体は墓に入りますが、
魂はそこには残らずに、輝く天国へと昇ります。
そこではキリストが、
無事に目的地に着いた教会員たちと共に支配なさっています。
悪魔の権威は、天国までは及びません。
こういうわけで、「第一の復活」は
神様の子どもたちがこの世を去る瞬間のことを意味している、
ともとれます。
その人の魂は天国の神様の御許に移り住むので、
もはやその人には地獄に落ちる危険がありません。
「千年間」とは1000×365日間という期間を意味するものではない、
というアウグスティヌスの見方が正しいのは確かでしょう。
「ヨハネの黙示録」に出てくるいろいろな数字は
正確な数量に対応するものではなく、
他のメッセージを含んでいる場合が多いのです。
「千年」という言葉は、
具体的な長さは伏せられたまま、
たんに長い期間をあらわしているものと思われます。
私たち人間は具体的な期間の長さを知らないが、
神様はそれも御存知である、
ということをこの数字は思い起こさせます。
それがいつ始まりいつ終わるのかは、神様がお決めになっています。
ここで、「ペテロの第二の手紙」の
「主にとって、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」
(「ペテロの第二の手紙」38節より)という御言葉が想起されます。

2012年8月29日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章1~6節 千年王国(その2) 


 
千年王国 2016節(その2)

 
 
イエス様もまた、サタンの捕縛について語られています
(「マタイによる福音書」1229節)。
これによってイエス様は、
御自分の悪魔に対する勝利を意味しておられました。
イエス様は敵よりも強いお方であり、
それゆえ、
悪魔の活動はイエス様が許可なさる範囲内に留まっています。
つまり、千年王国の描写においても、
悪魔が捕縛されているということは、
必ずしも悪魔の活動が完全に止んだことを意味しないのです。
むしろそれは、
サタンの活動が制限された、という意味にとることができます。
神様は悪魔を捕縛なさったので、
悪魔が手出しできることは
神様が許可されることがらに限定されています。
例として、ここフィンランドでは
キリストの教会は何百年もの間、
福音を自由に宣べ伝えることができました。
千年王国の幻に関するアウグスティヌスの説明の仕方は、
(近年までの)フィンランドにもよく当てはまります。
フィンランドではサタンの活動は制限されてきたので、
サタンはここでは鎖で縛られてきたかのようです
(最近ではフィンランドでも
サタンの活動が激しくなってきているのは否めない事実です)。
 
 

2012年8月27日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章1~6節 千年王国(その1)


 
「ヨハネの黙示録」20
  
千年王国 2016節(その1)
  
 
ヨハネは、鍵と鎖を手に持っている天使を見ます。
天使は悪魔を縛り、深淵へと投げ込みます。
「悪魔は千年の間縛られているが、
その後自由にされて、しばらくの間暴れる機会を与えられる」、
とヨハネは語ります。
それからヨハネは、この世で獣に仕えなかった人々を見ます。
彼らは生き返り、イエス様と共に千年の間支配します。
「これは第一の復活である」、とヨハネは言い、
この復活にあずかった者たちを祝します。
彼らに対しては、「第二の死」は何の力もありません。
14節には、「第二の死は地獄を意味している」、とあります。
この地獄に、悪魔とその僕たちはいつか投げ込まれるのです。
第一の復活でよみがえる人々には、地獄に落ちる危険はありません。
  
千年王国のイメージについては、さまざまな説明が試みられてきました。
いわゆるキリアスト(千年至福説支持者)たちは、千年王国を、
最後の裁きに先立って千年間続く「楽園のような時代」ととらえています。
それによると、
この時代には悪魔は世で活動することができず、
それゆえ、地上には悪魔が引き起こす悪いことも存在しません。
悪魔は縛られているため、皆が安心して生活できます。
イエス様を信じて死んだ人々は墓からよみがえって、
イエス様と共に世界を支配します。
このキリアストの説明の問題点は、
新約聖書は他の箇所で地上の楽園について語っていない、
ということです。
たとえば、弟子たちになされた終末の時に関する長いお話の中で、
イエス様は「地上に到来する至福の時代」について
一切言及されていません(「マタイによる福音書」24章、
「マルコによる福音書」13章、「ルカによる福音書」21章)。
むしろ新約聖書は、
「世は悪化の一途を辿り、
キリストが再臨なさる最後の日になって、ようやく世の悪は止む」、
と教えています。
こうした理由から、
教父アウグスティヌスやルターなどは、この千年至福説を否定しました。
アウグスティヌスは、
「千年王国というのはキリストの教会のことである」、
と考えました。
教会は、
悪魔のわざを無効にしてくださったイエス様の勝利を宣べ伝えます。
教会の宝は、
人々を悪魔の支配から解放する福音です。
悪魔は神様が許可されることだけを行うことができるので、
たしかに「悪魔は捕縛されている」、と言えます。
教会が自由に福音を伝えられる地域では、
悪魔は鎖につながれ、深淵に投げ入れられています。
アウグスティヌスによれば、
「千」という数字は文字通りに受け取るべきではありません。
それは、
ペンテコステに始まりイエス様の再臨の時に終わる
キリストの教会の時代を描いています。
ルターは、
千年王国のイメージに関するこのアウグスティヌスの解釈に同意していました。

2012年8月24日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第11回目の終わりのメッセージ


  
終わりのメッセージ
   
信仰のおかげではなく
   
  
救いは信仰や純真な献身には依らない、
というのは本当でしょうか。
多くの人は、
「信じなければならない」、
という思いを抱いて歩んでいます。
それはたいへんな重荷です。
信じることを強制する人々は、
よくないことをしているのです。
  
キリスト教の核心は信仰ではありません。
「信じなければならない」
という義務感に取り付かれている人は、
その義務感を投げ捨ててよいのです。
そのかわりに、イエス様を見つめなさい。
イエス様はこのことについて何も要求なさいません。
それどころか、すべてを与えてくださいます。
あらゆる重荷と罪の呵責は、
イエス様の受難の死によってすっかり取り去られているのです。
そしてそのときに、
「信じなければ」
という義務感も取り払われているのです。
人が救われるのは、
その人の信仰のおかげではなく、
イエス様の贖いのみわざのおかげなのです。
信仰は、
イエス様の善き本質の中にすっかり隠れてしまっており、
私自身の目にはそれが見えないほどです。
そして、見ようとする必要もないのです。
私はイエス様の中に罪の赦しを見ているのですから。
  
そこには何の強制もありません。
そこにあるのは、神様の子どもとしての自由です。
  
(ラウリ コスケンニエミ 「今日、私と共にいてください」)

2012年8月22日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第11回目の質問(18~19章) 



11回目の集まりのために
  
「ヨハネの黙示録」1819
  
 
ヨハネはバビロンの滅亡を目にすることになりました。
それ以前に彼は「都の外に出るように」、という命令を耳にします。
「バビロン」は、悪魔の帝国を、
「バビロンを捨てよ」という命令は、悪魔の活動と関係を断ち切ることを、
意味しているものと思われます。
悪魔は神様に属する人々のグループを滅ぼそうとしているのです。
イエス様に反対する者たちは悪魔の側についています。
ヨハネは、
彼らが親玉と共に惨めな最期を遂げる恐怖の有様を
描き出しています。
それから、ヨハネの視線は天国へと向けられます。
「イエス様のもの」として生き抜いた人々は、
天国の婚宴の中で永遠の喜びに包まれています。
  
  
質問

1)「バビロンから逃亡する」というのはどういう意味でしょうか。
184節の説明を参照してください。
それは私たちの時代にはどのような意味を持っているでしょうか。
  
2)バビロンの滅亡はどのように描かれていますか。
その描写に込められた私たちへのメッセージは何でしょうか。
  
3)裁きを受けた後、バビロンとその住人たちは
神様からの素晴らしい賜物には何一つあずかることができません。
神様からいただく賜物なしで生きるのは、どのようなものでしょうか。
地獄にはそうした賜物がまったくないのです。
要するに、地獄とはどのような場所なのでしょうか。
  
4)最後の日にバビロンは
自分が行ったあらゆる悪の報復を神様から受けます。
「復讐を神様にゆだねる」、というのはどういう意味でしょうか。
「ローマの信徒への手紙」1219節を参照してください。
どのようなことがらに関してこのようにすることができるのでしょうか。
あるいはまた、このようにするべきなのでしょうか。
  
5)あなたは神様を畏れる人々のうちの一人ですか(195節)。
それは、あなたの生活と信仰において、どのようにあらわれていますか。
  
6)198節の「聖徒たちの義なる行い」とはどのような意味でしょうか。
その箇所の説明を参照してください。
この箇所は、天国についてどのようなことを語っていますか。
そこでの生活はどのようなものでしょうか。 

2012年8月20日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 19章11~21節 小羊の戦いと勝利



小羊の戦いと勝利 191121
  
 
世の終わりの後に、神様に属する人々にどのようなことが起こるか、
ヨハネはすでに啓示を受けました。
新しい幻が始まるとき、時間が逆戻りして、
白い馬に乗っている方が悪魔に立ち向かう戦いを、ヨハネは目にします。
その方の名は明示されていませんが、
それが誰か、ヨハネは十分明瞭に書いています。
この方は、「神様の御言葉、王の王、主の主」です。
その答えはひとつだけです。
その方はイエス様なのです。
イエス様は敵に勝利して、その一味もろとも打ち砕かれました。
悪魔とその手下どもは捕らえられ、地獄に投げ入れられます。
私たちの主が再臨される「最後の日」に、このことは実現します。
  
12節には、
イエス様の御名はイエス様以外には誰も知らない、
とあります。
これは私たちに「神様の奥義」について語っています。
父、御子、聖霊なる三位一体なる神様は、
私たち人間にとって完全には理解できないお方です。
この方に関する疑問は、
多くの場合、答えが与えられないままです。
私たちはすべてを理解してはいませんが、
それでも神様に属する人となることができます。
今はわからないことも、
いつか天国でわかるようになります。
イエス様は天国に入った人々に神様の御名を書き込まれる、
という約束がフィラデルフィアの教会に与えられました
(「ヨハネの黙示録」312節)。
おそらくそれは、
「天国で私たちは神様のことがよくわかるようになるので、
答えのない疑問はもはや存在しなくなる」、
という意味でもあるでしょう。
  
悪魔が敗北する描写は印象的です。
戦いは終わり、
戦場には、おびただしい数の死体が累々と横たわっています。
鳥という鳥が戦場の上を飛び交い、
死者の肉をついばむ機会を伺っています。
ヨハネは幻の中でこの有様を目にします。
それは悪魔のグループの結末を描いています。
彼らは打ち負かされ、猛禽類が獲物を狙っています。
かつて悪魔とその帝国は強大で、
その手下どもと共に世界を支配していました。
しかし、それもいまや過去の話です。
戦いは終わり、悪魔一味は一網打尽に滅ぼされたからです。

2012年8月17日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 19章6~10節 小羊の婚礼(その2)



小羊の婚礼 19610節(その2)

 
 
それから天使は、
「小羊の婚宴に招かれた者はさいわいです」、と言います。
そのような人たちを祝するのは当然です。
彼らは、神様がおられるところ、
それゆえ「よいこと」しかないところにいるからです。
それとは逆に、人は、
もしも小羊の婚宴に招かれていないならば、
不快な苦しみに際限なく悩まされる場所にいることになります。
この点でも、
天国に入った人々は祝されるのにふさわしいと言えます。
彼らは地獄に行かずに済んだからです。
   
これを聴いてヨハネは、
彼に話しかけた天使の足元にひれ伏して拝もうとします。
しかし天使は、そんなことをしないように、と厳しく制します。
ただ神様のみを拝するべきだからです。
相手がたとえ神様の天使であろうと、
あるいはどれほど不思議な存在であろうと、
彼らを拝むことは許されません。
「エホバの証人」と話し合わなければならなくなったときには、
この箇所のことを覚えておくと役立ちます。
彼らは、「イエスは神ではない」、と言っているからです。
ところが聖書は、数多くの箇所で、
「イエス様の御前にひれ伏して、イエス様を拝んだ」、
という事実を語っています(たとえば、「ヨハネによる福音書」938節)。
イエス様はそうするのをお許しになりました。
その理由はひとつだけです。
イエス様は神様であり、そのことを御自分でも知っておられた、
ということです。
イエス様は神様の御子であり、父なる神様と同質のお方です。
それゆえ、神様の御前にひれ伏し拝むように、
イエス様の御前にひれ伏し拝んでもよいし、またそうすべきなのです。
  
10節では、「イエス様の証は預言の霊です」、と言われています。
これは、神様の預言者はイエス様について証する、という意味でしょう。
神様の預言者のメッセージの核心は、
「何をイエス様はしてくださったか、
何をイエス様は話してくださったか、
私たちにとってイエス様はどのようなお方か」、ということです。
イエス様以外の何かに関心を寄せるメッセンジャーは、
たとえ巧みに話したりすごい奇跡を行ったとしても、
神様の預言者ではありません。
私たちは、イエス様について語られている内容に基づいて、
正しい霊と偽りの霊を見分けることができます。
聖書がイエス様について証しているのと同じ証をするところにいるのが、
正しい霊なのです。


2012年8月14日火曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 19章6~10節 小羊の婚礼(その1)



小羊の婚礼 19610節(その1)

  
それからヨハネは、
この世の終わりの後にどのようなことが起こるか、目にします。
小羊の婚礼の時がきたのです。
天国に入った人々は、この結婚式について神様に賛美を捧げます。
賛美の声はあまりにも大きく、ヨハネはそれを
大群衆の歓声、多くの水の音、激しい雷鳴にたとえています。
神様は、御自分があらゆる権威を持っておられることを、
ついに示してくださいました。
悪魔は一味もろとも打ち負かされ、
永遠の喜びが天国で始まろうとしています。
  
旧約聖書は、神様の民と神様との関係を「結婚」にたとえています。
ちょうど夫婦が互いに対して忠実であるべきなように、
神様の民もまた神様に対して忠実でなければなりません。
彼らが他の神々に仕え始めたり、
神様の御心を無視したりしたことは、
「姦淫」でした。
「ヨハネの黙示録」はこれと同じことについて語っています。
イエス様に属する人々、すなわち、
洗礼を受けていてイエス様を信じている人々は、
イエス様と許婚の関係にあるようなものです。
彼らは自分の花婿に対して忠実を貫かなければなりません。
イエス様にお仕えするのを止めたり、
イエス様が言われたことをまったく心に留めなかったりするのは、
「不実」な態度です。
いまや神様の教会は「イエス様の花嫁」なのです。
その婚礼の時は、
キリストが再臨されて、この世とその悪が終わり、
永遠の世界が始まる時です。
  
7章では、罪人である人間が
この大いなる婚礼のお祝いに招かれるにふさわしい「衣」を、
どのようにしていただくのか、について語られました。
小羊の血によって衣が洗われ、白くされたのなら、
小羊の婚礼が行われる天国に入ることができます。
神様は天国にお住いで、聖なるお方です。
それゆえ、天国には自分の罪を抱えたままでは入ることができません。
罪は赦される必要があり、
イエス様の血だけが私たちの罪を洗い落としてくれます。
「自分は天国に入れる」と自認する一方で、
イエス様の血を大切にしていない人は、
自分自身を欺いており、天国への道を歩んではいません。
ここでも「ヨハネの黙示録」は、
天国へ入った者たちの上に着せられた「衣」について語っています。
「この衣は、聖徒たちの義なる行いである」、と言われています。
しかしこれは、
「よい行いをすることが天国へ入るための条件である」、
という意味ではありません。
人が天国に入る唯一の条件は、罪の赦しを受けていることです。
「罪の赦し」は、
何ら行いを成し遂げることなしに、
賜物として、イエス様からいただけるものです。
8節は、
天国で婚礼が始まる直前に神様に属する人々が何をいただくことになるか、
語っていると思われます。
「神様の御心にかなう義なる行い」がそれであり、
私たちはその中に身を包まれる、ということです。
その意味は、
この世で最もまじめな「神様の子どもたち」の生活の中にも
執拗につきまとう悪い行いが、いまや過去のものとなった、
ということです。
ついに悪は消え去りました。
天国に入った人々は、神様の御心にかなう善い正しいことのみを行います。
このため、天国は素晴らしい場所になります。
相手を傷つける言葉も、悪い行いも、
自己中心的な態度も、愛に欠けた冷たさも、
もはや存在しません。
あるのはただ、私たちが互いに行う「よきわざ」のみです。
これもまた神様の賜物であり、私たちの手柄などではありません。
「着せられた」という言葉が、このことをよくあらわしています。
本来私たちがもっていないはずのものを、
神様は私たちの上に着せてくださるのです。