2011年8月31日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 同じことをさまざまな角度から

  
同じことをさまざまな角度から
 
「ヨハネの黙示録」を正しく理解するためには、
この書物に登場する多くの幻はある同じことをあらわしている
ということに気付く必要があります。
カメラの場合には、
全体がフレームに収まるような遠距離からの写真や、
ある箇所の細部をとらえた近距離からの写真など、
同じ被写体をさまざまな角度から撮ることができます。
「ヨハネの黙示録」でもこのようなことが行われているのです。
ある幻はある出来事をひとつの角度から描いたり、
あるいはその出来事全体を見渡すようなイメージを与えたりしています。
また、後に出てくるもうひとつの幻が、
以前すでに扱った内容を新しい角度からさらに細かく描き出そう
としている場合もあります。
この典型的な例は、バビロンの滅亡に関する描写です。
それについて「ヨハネの黙示録」はすでに14章8節で語っています。
そして同じ出来事のより細かい描写が18章に出てきます。
もうひとつの例は、神様の御許における永遠の命についての描写です
(たとえば、7章9~17節、19章6~10節、21章および22章)。
すべてこれらの箇所は同じことについて
互いに少しずつ重点をずらしながら語っているわけです。
 

2011年8月29日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 時間軸に沿ってではなく

  
時間軸に沿ってではなく
 
「ヨハネの黙示録」のはじめで、イエス様はヨハネに「現在のことと今後起ころうとしていること」を見せてくださいました(1章19節)。
つまり、「ヨハネの黙示録」には実はふたつの部分があるのです。
最初の1~3章はヨハネがイエス様にお会いした時すでに実際に起きていた出来事について語っています。
4~22章はその後の時代に起こることを描いています。
もっとも、「ヨハネの黙示録」はこのようにまったく単純な構成になっているわけではありません。
すでに1章には将来起こる出来事に関する記述があります。
一方、4~22章はヨハネがパトモス島で生活していた時のことについても触れています。
 
「ヨハネの黙示録」はヨハネが実際に生きていた当時の状況を描くことで始まります。
主の日、日曜日に、ヨハネは復活したイエス様に出会います。
そして、西暦一世紀の終わり頃に存在していた七つの教会に宛てて書き送るべきメッセージをイエス様から聴きます(2~3章)。
 
「ヨハネの黙示録」はこの世の終わりについての描写で閉じられます。
現在の世界は滅ぼされ、神様は新しい天と新しい地を創造されます。
ヨハネは新しい被造世界の不思議さに驚嘆します(21~22節)。
「ヨハネの黙示録」の読者は、この書物があたかも時間の順序を守りつつ西暦一世紀からこの世の最後の日に至る時までを描き出しているかのように考えるかもしれません。
しかし、そのようにこの書物を読む人は誤読しています。
ヨハネは確かに互いに連関する幻の一群を見ますが、それらは時間軸に沿って進んでいくわけではありません。
この書物でヨハネはあたかも舞台から舞台へと引っ張りまわされているかのような印象を与えます。
ある舞台では彼は地上での出来事を見ます。
かと思うと、たちまちのうちに彼は時間を飛び越えて未来に行き、天国についての幻を見ます。
それからまたヨハネは時間を逆戻りして新しい舞台に連れて行かれ、この世の出来事を見ることになります。
「ヨハネの黙示録」の幻は時と場所を飛び越えます。
未来に向かったり、また逆戻りしたりしています。
この書物の数々の幻は時間的な順序通りには整列されていません。
これからわかるのは、この書物の幻を事後的に時間的な順序に並べ替えてそれらに細かい説明を加えていくのは到底不可能なことだ、ということです。
  

2011年8月26日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック ヨハネとは?

  
ヨハネとは?
  
「ヨハネの黙示録」の書き手はヨハネです(1章1節)。
しかし、彼は誰なのでしょうか。
多くの研究者は「ヨハネによる福音書」と「ヨハネの黙示録」を比較して、言葉遣いがあまりにも相違しているため両者の書き手が同じであるとは到底思えない、という結論を出しました。
そして多くの人は、「ヨハネの黙示録」のヨハネは使徒ヨハネとは別人物だ、と理解しています。
しかしながら、これはまったくありえない話というわけでもないのです。
「ヨハネによる福音書」と「ヨハネの黙示録」との間の違いは、たとえば、ヨハネは「ヨハネの黙示録」をたった一人で上手とはいえないギリシア語を用いて書いたが、「ヨハネによる福音書」を書いたときには、多くの弟子が使徒の執筆を手助けしたので、この書物のギリシア語は(文法的な)ミスのない流暢なものになった、とも説明できます。
このように、「ヨハネによる福音書」と「ヨハネの黙示録」の書き手が同一人物で、しかもそれが使徒ヨハネであった、と考えることも不可能なことではありません。
 
誰が書き手かということは「ヨハネの黙示録」の価値を決定するものではありません。
その人物が使徒ヨハネか、それとも誰か他の人物か、にはかかわりなく、現に「ヨハネの黙示録」は聖書の中に入っています。
神様がこの書物を聖書の中の一冊として入れてくださり、それを御自分の御言葉として承認されたのです。
「ヨハネの黙示録」の中に私たちは神様の御声を聴きます。
神様は私たちに何か言われたいことがあり、その一部をこの書物の中で伝えてくださっています。
それゆえ、書き手にはかかわりなく、「ヨハネの黙示録」は神様の御言葉が有する価値をもっているのです。
 

2011年8月24日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック いつどこで?

 
いつどこで?
 
「ヨハネの黙示録」はおそらく西暦90年代に書かれたと思われます。
当時ローマ帝国を支配していたのは皇帝ドミティアヌスでした。
宗教的にも地域差がある帝国内部を均一化するために、ドミティアヌスは「ローマ帝国内の住民は皆、ユダヤ人を除いて、皇帝を神として敬うように」という勅令を出しました。
当然ながら、このような要求をクリスチャンは受け入れることができませんでした。
彼らは第一戒(「あなたには私のほかに神があってはならない」)の命じていることを知っていたからです。
その結果クリスチャンは厳しい迫害の対象になりました。
死の脅迫によって、皇帝の像の前で敬礼するようにクリスチャンは強制されました。
おそらくこうした迫害の中でパトモスという島にヨハネは追放されたものと思われます。
そこでイエス様が彼の前に現れて「ヨハネの黙示録」に書かれてあることを幻として見せてくださったのでした。
  

2011年8月22日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック はじめに

  
はじめに
 
「ヨハネの黙示録」は新約聖書の中でも特異な書物です。
将来起こる出来事を描いている箇所は新約聖書の中ではこの書物以外にもあります。
たとえば、「終末」についてのイエス様の教えがあげられます(「マタイによる福音書」24章、「マルコによる福音書」13章、「ルカによる福音書」21章など)。
しかし、このテーマに焦点をあてた書物は「ヨハネの黙示録」だけです。
 
聖書の中でこの「ヨハネの黙示録」ほど内容について議論を巻き起こしてきた書物はほかにありません。
この書物をわけのわからない幻が次から次へと出てくる本とみなす人々の中には、この本をまるごと捨ててしまいたいと思っている人さえいます。
しかしまた、ある人々にとってはこの書物は新約聖書の中でも最愛の書物となっています。
彼らは新約聖書の他のどの書物よりもこの書物を熱心に読み、この書物を通して世界の出来事とその意味を説明しようと試みます。
「ヨハネの黙示録」について人々の意見が対立しているのは、別に最近始まったことではありません。
教会の歴史を通じて「ヨハネの黙示録」は疎まれたり愛されたりしてきた書物なのです。
すでに初期の教会でも、「ヨハネの黙示録」を聖書に取り入れるべきではない、と考える人たちがいました。
その一方では、まさに「ヨハネの黙示録」に聖書の他の書物以上の価値を見出す人たちもいたのでした。
  
マルティン・ルターの「ヨハネの黙示録」に対する態度には注目すべき点があります。
1522年にこの宗教改革者は新約聖書のすべての書物に序文を記しました。
その際「ヨハネの黙示録」に対して彼は非常に否定的な態度をとり、こう書きました、
「私はこの書物を使徒的でも預言者的でもないとみなしています。(中略)私の霊はこの書物に対して違和感を覚えます」。
「ヨハネの黙示録」を嫌ったり軽んじたりする人々はしばしばこのルターの序文を引き合いに出し、「宗教改革者もこの書物を大切にしなかったのだから、どうして私たちがそれと本気でつきあえるだろうか」、などと言い放ちます。
しかしそう言うときに彼らは、おそらく故意に、ルターが後年どんなことを書いているかについて忘れています。
1530年、ルターは「ヨハネの黙示録」についての新しい序文を記しました。
今回は彼はこの書物に対して前とはまったく異なる態度をとっています。
「ヨハネの黙示録」が難しい書物であることを彼は認めています。
にもかかわらず、それが神様の啓示の一部であり聖書の他の書物とまったく同様に尊いものである、ということが今やルターには明瞭でした。
宗教改革者がこの書物について後になって書き記したことは、前に書いたことよりも重視されるべきです。
1530年に書かれた序文は、1776年度版の大部分のフィンランド語聖書に入っています。
そこでルターは「ヨハネの黙示録」を紹介するだけではなく、説明も与えています。
ですから、ルターの序文は読む価値が大いにあります。
   

2011年8月19日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 聖書研究会のはじめとおわりの祈り

これからは、「ヨハネの黙示録」についてのガイドブックを紹介していきます。
この本も信徒による聖書研究会で用いられることを想定して書かれています。
著者は、日本伝道111年の歴史を持つフィンランドルーテル福音協会で牧師として働いている人です。
今回は、聖書研究会を行うときの、はじめとおわりの祈りの一例として挙げられている次の祈りを紹介します。
 

「ヨハネの黙示録」ガイドブック
 
著者 ヤリ ランキネン (牧師)
日本語版翻訳編集 高木賢 (神学修士)


聖書研究会のはじめの祈り
 
私の神様、私たち罪人に霊的な宝庫、あなたの御言葉を開いてくださったことを感謝します。
私たちを聖書の中へと連れて行ってください。
聖霊様を私たちの指導者としてお与えください。
私たちが何を必要としているか、あなたはご存知です。
ご覧のとおり、私たちは貧しく飢え病気で裸です。
あなたの宝物をください。
ひもじい者に食べ物を、病人に薬を、裸の者に着る物を与えてください。
御言葉を学ぶときに常にそこからイエス・キリストを見出すことができるように、聖霊様の恵みをお与えください。
イエス様の中にあらゆる富が隠されています。
私たちがよりよく「主イエス様を着る」ことができるように、御言葉の学びを祝福してください。
イエス様が私たちの義であり模範であられますように。
そして、私たちが救い主についての理解と恵みの中で成長していきますように。
イエス様のゆえに私たちの祈りを聴いてください。
アーメン。
 
(ヨハンネス ベック 「異国人(天国人)の家庭生活」)
 

聖書研究会のおわりの祈り
  
愛する天の御父様、私たちがあなたの御言葉の宝庫で宝物を集めることができたことを感謝します。
信仰を通して私たちはあなたが共にいてくださるという力を実感することができました。
あなたは御言葉を通して私たちに話しかけてくださいました。
私たちはあなたの叱咤と激励の御声を聴きました。
御言葉は私たちの隠された罪を明るみに出してくれました。
御言葉は私たちにイエス様の御名により罪の赦しの恵みを確言して、私たちを慰め、新しい命を与えてくれます。
あなたの御言葉は霊と命です。
御言葉から私たちは平和と健康と救いをいただきます。
今もまた私たちは御言葉からイエス様を見出しました。
私たちは御言葉を心の中にしっかりとしまいたいと思います。
主イエス様、私たちの中に住みに来てください。
聖霊様によって私たちを支配してください。
私たちがあなたの御声に耳を傾けるようになさってください。
そして、私たちを御言葉を聴くだけではなくそれを実行する者にしてください。
聖霊様、私たちが御言葉をより深く慕うように私たちを教え導いてください。
三位一体なる神様、あなたの測り知れない恵みのゆえに私たちの祈りを聴いてください。
 
「主の祈り」を祈りましょう。
   
(ヨハンネス ベック 「異国人(天国人)の家庭生活」)
  

2011年8月17日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第13回目の終わりのメッセージ

  
終わりのメッセージ
 
現代はおそろしい時代です。
絶え間ない戦争、募る不信と怒り、生活条件の悪化、実行に移される罪の悪質化など。悲惨と残酷の度合いが増していくばかりです。
多くの人は恐れにとらわれ深刻そうにこう言います、
「これらすべては迫り来る世の終わりを予告している」、と。
ある種の宗教的なメッセージを伝える人々は上述のような出来事に嬉々として飛び付き、終わりの時の「しるし」を描き出してみたり、眠り込まないように聴き手に警告したり、目を覚ましているように勧めたりしはじめます。
 
「目を覚ましていなさい」という勧告は、本当に必要です。
しかし、誰が「目を覚ましている」真のクリスチャンなのでしょうか。
時の「しるし」を深く研究して「終わりの日」の到来の前に起こる出来事を観察する人でしょうか。
終末の問題とたわむれて、さまざまなやり方でそれについての知識を溜め込む人でしょうか。
そうではないのは、確かです。
「目を覚ましている」ことの核心は、今日「罪の贖い主」であり「新しい命の与え手」である主に、日々避け所を求めることです。
主の中に、私たちは今日、文字通り「すべて」をいただいています。
すなわち、現代と未来をです。
 
もしも愛する親しい人を夜通し待っている場合には、そう簡単には眠り込んだりはしないものでしょう。
 
「最後の日」には皆が震え上がります。
しかし、弱々しい信仰者はこう言います、
「主イエス様、来てください!」。
たとえその時イエス様が「裁き主」として来られるとしても、主を信じる者たちはイエス様に親しみを覚えます。
十字架につけられ死者の中から復活されたキリストに避け所を求めることを通して、彼らは目を覚ましていたからです。
 
本当に他には何も要りません。
残された時間が少なくなればなるほど、よりいっそうはっきりとイエス様の恵みについて語るべきでしょう。
そうすれば、今よりももっと多くの人たちが目を覚ましているようになって、こう言うことでしょう、「主イエス様、来てください!」、と。
 
(ラウリ コスケンニエミ 「家では帰りを待っています」)
  
  
(「コリントの信徒への第一の手紙」を読むためのガイドブックはこれで終わります。)