2010年10月28日木曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第2回目の質問

「コリントの信徒への第一の手紙」第2回目の質問

パウロは前章で始めたコリントの教会内の諍いの調停をこの章でも続けます。
十字架につけられたキリストについての福音は人間の理性にとっては疎遠なものです。
にもかかわらず、それは偉大で深遠な神様の知恵なのです。

1)はじめてコリントを訪れたときのパウロについて、私たちは何を知っているでしょうか。(「使徒の働き」16~18章を参照してください。)

2)教会から疎遠になった人たちの心をつかむために、教会は往々にして何か目に付く「派手なこと」をやったりするものです。
例として、大ホールを借り切ったり、たくさん仕事をしたり、外国から有名な説教者を招待したりすることが挙げられます。
これらのことについて、よい点や疑問に思える点について考えてみてください。

3)私たちの教会には多くのさまざまな仕事があります。
たとえば、教会の子供会や家族キャンプと、教会以外の主催する家族キャンプとの間にはどのような違いがあるでしょうか。
はっきりとした違いがありますか。
もしもない場合には、どのようにすれば教会の活動がよりよいものになるのでしょうか。

4)パウロによれば、人間の知恵はキリストの福音を拒絶します。
これは、「クリスチャンは頭がよくない」、とか、「クリスチャンは学がない」という意味でしょうか。

5)論理的にいくら考えたところで、人は信仰をもつようにはなりません。
それならば、信じるようになるために人はいったいどうすればよいのでしょうか。

2010年10月25日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」2章6~16節 

  
この世で一番美しい花、「福音」 2章6~16節
  
「この世の知者たちがキリストの福音を無視している」と語るとき、パウロはキリストの福音を恥じたりはしません。
それとは逆に、まさにこの箇所で、パウロは福音の素晴らしさを賛美しています。
福音は完全な真の知恵であり、偉大で尊いものなのです。
この世の知者たちは、まったく自分自身のせいで、この福音を学び知るようにはなりませんでした。
彼らが自分を知者と思い込んで福音を無視したとき、実は自分の愚かさのせいで、あらゆるもののうちで最も貴いものを失ってしまったのでした。
この世の権力者たちは実権を握っており、周囲から非常な敬意を受けています。
彼らの知恵は好意的に評価されます。
ところが、権力者も知者も一様に、自分自身の知恵の虚しさに気づくのです。
それとひきかえ、神様の隠された知恵、「キリストの血の福音」は、すでに天地創造の前から神様の御心の中にありました。
福音はこの世の中で秘密にされ隠されてきました。
栄光の主、キリスト御自身が十字架に磔にされたということは、人が神様の知恵を見ていないことを最も端的に示しています。
人々から高い評価を受ける者たちは、神様の知恵を無視します。
それとは逆に、神様を愛する者たちは、福音を通してキリストをいただいているのです。
それも、誰一人思いも及ばないほど深く。
  
もしも福音が人間の知恵では手に入れることができないものだとしたら、人はいったいどのようにして福音を知るようになるというのでしょうか。
もしも理性や本能によってはキリストについてのメッセージを受け入れることができないのだとしたら、誰もクリスチャンにはなれないのではないでしょうか。
もしも人間の知恵が福音を知る妨げとなっているのだとしたら、人間の愚かさによるならば神様の知恵が把握できる、ということなのでしょうか。
「一般的に人がクリスチャンになるのは、人間の知恵のためでも愚かさのためでもなく、神様なる聖霊様のみわざのおかげである」、とパウロは言っています。
神様の奥義は偉大です。
人間はそれを究めることができません。
人間というものについても、人が心の中でどのようなことを考えているか、知っているのは本人だけです。
このことは神様についてはなおのことよくあてはまります。
人間に対して神様は隠れたお方です。
しかし、御自分の御霊、聖霊様に対してはそうではありません。
人が神様の知恵を知るようになる唯一可能な方法は、聖霊様がその人をお招きになることです。
ちょうどこのことについてルターは、「小教理問答書」の聖霊様についての信仰告白の箇所で、次のように言っています、
「私は次のことを信じています。すなわち、私は自分の理性や力によっては私の主イエス・キリストを信じることができないし、その御許に行くこともできません。聖霊様が私を福音を通して招いてくださったのです。そして、私を御自分の賜物によって照らし、聖別し、正しい信仰の中に保ってくださったのです」。
聖霊様のみわざがなければ、キリストの十字架についてのメッセージは、人間には親しみがない難しく愚かしいものになってしまいます。
聖霊様がはたらいてくださるときに、人はキリストを愛するようになり、福音を神様からの慰めと感じられるようになります。
実はこれこそ、神様が人に何をプレゼントしてくださったか、人が心で知るための唯一の方法なのです。
   
福音は人間の知恵に基づいていません。
まさにそれゆえ、パウロも自分のメッセージを人間の知恵に基づいて説明しようとはしていません。
彼は御霊が教えてくださった御言葉によってキリストの十字架について語ります。
このメッセージは、内で聖霊様がはたらいておられる人の中に応答を生みます。
「自然のままの人間」、すなわち、ありのままの人間は福音を拒絶し、それをまったく愚かな教えとみなします。
「霊的な人間」、すなわち内で聖霊様がはたらいておられる人間の中には神様の福音への応答が生じます。
この応答を私たちは「信仰」と呼んでいます。
  
パウロは「天の高み」にそれとなく触れたこの箇所のしめくくりとして、「イザヤ書」(40章13節)を引用しています。
この箇所をパウロはヘブライ語の旧約聖書ではなく、「七十人訳」(ギリシア語でセプトゥアギンタといいます)と呼ばれるギリシア語の旧約聖書から引用しています。
ヘブライ語版が「主の御霊」について語っているのに対し、ギリシア語版は「主の御心」について語っています。
おそらくパウロは、「私たちは神様の御霊を所有している」というような主張を意識的に避けたのではないでしょうか。
それゆえパウロは、「主の御霊」についてではなく、「キリストの御心」について語っているのです。
ともあれこの箇所は、パウロがどのように旧約聖書を読んでいるかをよく示しています。
聖書の箇所が(父なる)神様について語っているようにみえる場合でも、パウロはそれを(御子なる)キリストを意味している箇所として捉えているのです。
神様の三位一体性の奥義はすでに旧約聖書の端々に見てとれる、ということです。
パウロは手紙の1~2章でキリストの福音と人間の知恵とについてとても深く語ってきました。
この箇所は彼の手紙の中でも卓越したもののひとつです。
    
まさにこれらの箇所は「異邦人の使徒」を、人間的に考えても非常にハイレヴェルな思想家とみなすように促します。
パウロは、彼の時代の哲学者たちと議論する際に、自分を恥じる必要がないほどの知性の持ち主でもあったのです。
多くの研究者は、「宗教を哲学的に考察するのがコリントの教会のクリスチャンの一部の趣味だったため、彼らのことを念頭においてパウロはこの箇所を書いた」、と仮定しています。
しかし私たちは、「こうしたことを確信をもって断言できるほどコリントの教会の状態について十分に知ってはいない」、ということを告白しなければなりません。
まさにこの難解で深遠な箇所でパウロがあらゆる人間的な知恵を否定しているのは、興味深いものがあります。
それにはもっともな理由がありそうです。
もしも学のない猟師が「人間の知恵には何の役にも立たない」と言ってみたところで、笑いものになるのが落ちでしょう。
同じことを学識豊かで俊英な「異邦人の使徒」が口にすれば、ちがう結果になる可能性があります。
パウロは、知識人たちの知恵の歪みを示すために、彼らのレヴェルまで上がります。
彼らの知恵の歪みはキリストの十字架を否定するところに端的に現れています。
信仰の核心にふれる問題を自分に正直に考えてみようとする人にとって、この知恵の歪みは容易に無視できないことです。
私たち人間が皆互いに独自の存在であるのは、神様の創造のみわざの豊かさの表れです。
天国のことを深く考えることを、避ける人もいれば、生きていくうえで欠かせないことだと思っている人もいます。
ともあれ、このような箇所が示しているのは、信仰の領域では神様が人間に与えてくださった知性を働かせる機会も十分にある、ということです。
そして、その最良の例が使徒パウロです。

2010年10月22日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」2章1~5節 

  
十字架の御言葉
   
「コリントの信徒への第一の手紙」2章
   
おびえた心でコリントへ 2章1~5節
    
1章でパウロはコリントの教会の争いを取り上げました。
今この箇所では、彼はまったくちがうことについて話しているように見えます。
1章の終わりで彼は、「神様の福音は人間的な教えではないこと、神様の知恵は人々の考えとはまったくちがう何かであること」、をはっきり示しました。
とはいえ、パウロはコリントの教会とその争いを常に念頭においていたことを、私たちは忘れてはなりません。
彼が教会の分裂について思いめぐらしつづけていたことを、私たちは4章で気付かされることになるでしょう。
  
使徒パウロのコリントに至るこれまでの旅路は、たいへん厳しいものでした。
フィリピで虐待、投獄され、テサロニケとべレアからは逃亡を余儀なくされ、アテネでは哲学者たちとの議論に時間を浪費しました。
パウロは図太い神経を持った「スター説教者」などではなかったのです。
アテネからコリントへと向かう途中、彼はごく普通の意味で恐怖にとらわれていました。
どんなことがコリントで彼を待ち受けているか、いったい誰が知っていたでしょうか。
そういうわけで、パウロがコリントの教会にあらわれたときの様子は、力強く周囲を圧倒するようなものではありませんでした。
こうした状況の中で、かえって彼は一番大切なことのみに集中することができたのです。
彼は、キリストの十字架と罪の赦しについて話しました。
パウロは「神様の奥義」を周りの人に伝えつづけました。
神様がこの奥義を信じるように召された者は、パウロのもとに来て福音を聴き、洗礼を受け、「神様のもの」となりました。
コリントでパウロは、言葉を巧みに操る者と競争したり、哲学者たちと議論する必要はありませんでした。
そのメッセージは単純でした。
それを信じた者は神様を見つけました。
信じなかった者は傍らを通り過ぎました。
まさにこのように、コリントの信徒たちの信仰は、人々の知恵あるいはパウロの才能や魅力に基づいて得られたものではなかったのです。
彼らの信仰の背後には、神様おひとりがおられました。
また、理性では理解できない、「キリストの贖いのための死」についての神様の教えがありました。
そして、まさにこの教えがまったく不思議なかたちで実を結んでいったのでした。
    

2010年10月20日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第1回目の終わりのメッセージ

   
終わりのメッセージ
  
この友を知っているあなたがたは、「外」で、この世のむなしさの中で、ぐずぐずしていてはいけません。
あなたがた主に祝福された者よ、「内」に入りなさい。
来て見てごらんなさい!
こちら側、垂れ幕の後ろ、目に見える世界の向こう側では、私たちの花婿が立って、私たちを待っておられます。
私たちはこの方の声を福音の御言葉の中に聴きます。
そして、この方を聖餐式で食べて飲みます。
信仰の中で抱きしめ、愛の中で口づけします。
  
「外」で悲しそうにぶらぶらしていないで!こっちへ、あなたの友、あなたの花婿のところにおいでなさい。ここには、世が与えることができない「平和」があります。
ここでは、すっかり憩うことができます。
イエス様御自身が私たちの平和、私たちの憩いなのです。
ですから、どうしてまだ躊躇し、ぐずぐずしているのですか。
主を知っており、主の善性を味わった皆さん、どうかこちらに来てください!
  
主の次の呼びかけを聴いてください!
   
「私の花嫁よ、私と一緒に来なさい。
内に入って、こちらにおいで。
獅子の隠れ家から、豹の山から、出てきなさい」。
   
主は私たちが、主と共にいるように招いておられます。
主は私たちが、獅子の隠れ家や豹の山から出てきて、私たちの花婿の個室の中に入るように命じておられます。
  
(F. G. ヘドベルグ 「疲れた人に安息を」)
  

2010年10月18日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第1回目の質問

「コリントの信徒への第一の手紙」第1回目の質問

挨拶の後で、パウロはコリントの教会の争いを取り上げます。
紛争を解決するためにパウロは、キリストの福音が人間的な教えではなく神様の教えであることを強調します。

1)パウロはコリントの教会の信徒を「聖」と呼んでいます。
あなたは自分や自分の属する教会の他の信徒のことを「聖」と言い切ることができますか。

2)パウロは、言いたいことを肯定的な態度で取り上げ、コリントの教会の信徒に、「彼らの賜物が本当にすばらしいものだと自分も思っている」、ということを伝えるために苦心しています。
パウロは、コリントの教会の信徒たちの多くが彼のことをコリントから追い出そうとしているにもかかわらず、このように書いているのです。
この使徒パウロの姿勢から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

3)私たちは皆、さまざまなグループに分かれて、自分のグループのリーダー格の人物の肩を持ち、その結果、教会の中に争いが起きてしまうようなことをしてはいませんか。
教会内での争いで、争いの「内容」と争っている「人々」とを互いに区別して考えるのは容易なことですか。

4)「十分わかりやすく説明しさえすれば、人々は教会に来て福音を信じるようになる」、と私たちは考えがちです。
これは本当でしょうか。
自分の体験を話してくださいませんか。

5)パウロの時代の信仰者は、多くの場合、貧しく名も知れぬ出自の人たちでした。
私たちの時代にはどうでしょうか。
いまでもイエス様は、飢えに苦しんでいる世界の一番貧しい人たちに対して、伝えるべきメッセージをおもちでしょうか。
この点に関して、私たち豊かな生活を享受しているクリスチャンの使命はどのようなものでしょうか。

2010年10月8日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」1章26~30節 

  
さまざまな信徒がいる教会の宝 1章26~30節
   
コリントの教会の例を見ると、「人間的な理性は神様の知恵を受け入れない」というパウロの言葉が本当だとわかります。
権力者、哲学者、貴族などが大勢連れ立ってキリストの御許に集まってくるようなことはありませんでした。教会員の大半は貧しく学のない人たちでした。
こうすることで神様は、世が高く評価するすべてのものを恥じ入らせたのです。
世が軽蔑してきたタイプの人々が、キリストの中に自分たちの宝と知恵を見出したのでした。
こうしてまた、エレミヤに語らせた、「誇る者は、私を知っていることと、私が何を望んでいるかを知っていることを、誇りとしなさい」(「エレミヤ書」9章24節をまとめた)という神様の御言葉が成就したのでした。
  
ここでパウロの言葉に注目するべきでしょう。「この方(イエス・キリスト)は神様により私たちにとって知恵、義、聖、贖いとなられました」(1章30節)。
この短い御言葉の中に、純粋で素晴らしい福音が隠されています。
キリストは神様の与えてくださった賜物を拒まない人たちにとって「知恵」です。
またキリストは人々にとって「義」となられました。
ルターはまさにこれに関連して「自分のものではない義」(ラテン語でjustitia aliena(ユースティティア アリエーナ)と言います)という言葉を用いているわけです。
この言葉の意味は、「神様の御前において罪人を守ってくれるのは、その罪人自身の聖と完全さではなく、キリストの聖と完全さである」、ということです。
「キリストが私たちにとって聖となられた」とパウロが言うとき、人間自身の「聖化」、つまり、「よりよい存在になることの大切さ」を強調するキリスト教のグループに対して、かなりの平手打ちを食わせていることになります。
私たちの唯一の避けどころは、「キリストが私たちの聖でもあってくださっている」、ということです。
「贖い」について語るとき、まずまちがいなくパウロの念頭にあったのは、「奴隷を買い取って自由にする」、ということでした。
誰かが奴隷を買い取って自由にするのとまったく同じように、キリストは私たちを御自分のために御自分の血で買い取ってくださいました。
このイメージが未来のことも指し示しているのは確かです。
すなわち、最終的な贖いは最後の裁きの時に行われる、ということです。
この裁きの座で、私たち罪人はキリストのゆえに神様の怒りから救い出されるのです。

このようにパウロは手紙を「愛する問題児の教会」に書き始めました。
彼は問題を回避せず、すぐ手紙のはじめに取り上げています。
この手紙でパウロは、コリントの信徒たちの頭を撫でるような真似をまったくしていません。
にもかかわらずパウロは、教会の信徒たちのことを「神様に愛されている聖なる者」である、と言い切っています。
このことについて、私たちにはきっとたくさん考えてみるべきことがあるでしょう。
  

2010年10月1日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」1章18~25節 

  
理に反する十字架の説教 1章18~25節  
  
パウロは、コリントの教会の紛争者のうちの誰が正しく誰が間違っているか、少なくともすぐにはっきり示そうとはしません。
彼は「神様の福音」について語り始めます。
この福音は人間の考えの及ばぬ遥か上方にあるため、福音を敬愛する者が福音をめぐって人間くさい喧嘩を始めるのはありえないことです。
キリストについての福音は、人間的な教えでも人間が捏造した教えでもありません。
人に福音の宣教をゆだねることによって、神様は、「人間の賢さを無意味なものにする」という預言を成就なさいます(「イザヤ書」29章14節)。
キリストの誕生、死、復活以前に、神様は御自分の偉大な知恵と義とを預言者に宣教させました。
しかし、人々は福音に背を向け、神様を無視した生活を続けました。
これに対する神様の答えは、御自分の知恵を受け入れなかった人間たちにまったく愚かな教えを与えることでした。
それがキリストについての福音です。
福音は人間的な理性の限界を超えるものです。
ユダヤ人は大いなる奇跡を、ギリシア人は鉄壁の論理と深い知恵を要求します。
人間の知恵はいつでも神様を隅に追いやるものです。
にもかかわらず、神様は福音を皆に宣べ伝えるようになさいました。
神様が信じるように召された者は福音を信じます。
まさにこれは、神様の愚かさや弱さでさえも人間の最高の知恵とはまったく別格のものだ、ということをよく示しています。
   
注意深い読者なら腰を抜かしてしまうような表現をパウロはここで用いています。
もしも主の使徒がこのように話さなければ、誰一人「神様の愚かさ」などという言葉を口にする勇気などは持ち合わせてはいないことでしょう。
しかしパウロは、あえてこのように言うことによって、福音の核心を信じがたいほど深く探り当てているのです。