2010年4月30日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章7~16節 その2

    
   
4章7~16節 賜物を用いることについて その2
    
    
教会がキリストのからだであり、教会には御霊の賜物が与えられていることを、パウロはしばしば語っています。
今ここでパウロが強調しているのは、「クリスチャンひとりひとりが、キリストのからだの肢体として、御霊の賜物と自分の奉仕の使命をどのようにいただくか」ということではなく、「キリストは教会にある種の職制をお与えになり、この職制を通じて、神様がキリストのからだである会員ひとりひとりを、積極的な愛の奉仕へと整えてくださる」という点です。
     
パウロが挙げている職制のうち、使徒と預言者の職制は一回的なものです。
私たちは今自分の仲間の中から使徒や預言者を選び出したりはしません。
聖書に書かれている彼らの教えに従うことで、私たちには十分なのです。
それに対して、福音伝道者、牧師、教師は、私たちの時代にも存在している職制に対応しています。
もっとも、教会の職制について考えるときには、職制の名称ばかりではなく内容にも注目していくべきでしょう。
「エフェソの信徒への手紙」のこの箇所は、教会の職制がとても大切な問題であることを示しています。
ルター派の基本信条であるアウグスブルク信仰告白第5条が、教会の職制を、人々に信仰を得させるために神様が設定なさったものと規定しているのは、理由のないことではありません。

2010年4月28日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章7~16節 その1

 
 
4章7~16節 賜物を用いることについて その1
    
ここでパウロは詩篇68篇29節を引用しています。
キリストはこの地上に下ってこられました。
その後で、すべての天よりも高いところにある御座にお着きになりました。
そして、人々に御霊の賜物を分け与えてくださっています。
           
「エフェソの信徒への手紙」がここでキリストのからだと神様の賜物についてどのようなイメージを用いているか、注目してみましょう。
高みにのぼられたキリストの賜物とは、教会のさまざまな職制にほかなりません。
すなわち、使徒、預言者、福音伝道者、牧師、教師です。
これらの職制を通じて、キリスト御自身が教会とその会員ひとりひとりを世話してくださっています。
まさにこうして、キリストは信仰者ひとりひとりがキリストのからだを建てるようにしてくださいます。
この「からだ」は活きて働いている存在であり、どんどん成長していきます。
成熟するにいたって、このからだは、未成年者のあらゆる愚行を捨て去り、もはやいろいろな教えに振り回されることもなくなります。
こうして、からだは自分のかしらにしっかり結びつきます。
教会がキリストに結びつくことにより、その会員ひとりひとりが互いに結びつき、各々が自分の使命をしっかり果たし、こうして、からだが愛につつまれて成長を続けていきます。
      

2010年4月26日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章1~6節 その3

 
      
4章1~6節 その3
  
クリスチャンはひとつのからだの肢体となるべく洗礼を受けています。
それゆえ、クリスチャンはひとつのからだです。
それはちょうど、御霊や主や神様がおひとりであられるのと同じです。
「神様がおひとりであられる」ことを強調するとき、5~6節はユダヤ人の信仰に結びつきます。
この日々告白されてきた信仰とは、「イスラエルよ聴きなさい。主は私たちの神様であられます。主はおひとりです」(申命記6章4節)というものです。
             
私たちクリスチャンは三位一体なる神様しか知りません。
あらゆる時代に教会がそうしたように、パウロは神様の唯一性について語り、同じように聖霊様と御子についても語っています。
私たちは三位一体の奥義にひれ伏して、三位一体の神様に栄光を帰するべきなのであり、聖書よりも賢くなろうとしてはいけないのです。
私たちを聖なる神様の子供としてくれた、私たちの人生で受けた唯一の洗礼について、私たちが今日もまた感謝することができれば、どれほどよいことでしょうか。
   
エホバの証人は、家の前にやってきては三位一体論について議論をふっかけて、それをカトリック教会の捏造したものだと言い張ったりしますが、このようなエホバの証人の攻撃に対してすかさず徹底的な返答をすることができる人は、公に信仰告白するクリスチャンのうちでもあまりいないのではないでしょうか。
ここでは、「クリスチャンははじめから唯一の神様を信じて告白してきたこと」と、「それと同時に、神様について語っている詩篇を直接キリストにあてはめてきたこと」とを確認しておけば十分です。
例として、「エフェソの信徒への手紙」4章8節と「詩篇」68篇19節などをあげることができます。
また、「ヨハネの黙示録」では、御座に座っておられる神様と小羊とは理解を超えるほど親しい間柄です。
実のところ、どちらについて語られているのか、わかりかねる場合もあるほどです。

2010年4月22日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章1~6節 その2

                 
4章1~6節 その2
 
   
先を急ぐ前に、「エフェソの信徒への手紙」の構成に注目してみることにしましょう。
この構成順序はクリスチャンの信仰の内的な段階とも対応しています。
       
まずはじめに来るのが、「神様は私のために何をしてくださったか」ということです。
その後で、はじめのことがらの結果として続くのが、
「このような神様のあらゆる善性は、私の生活にどのような影響を与えるか」
ということです。
これは、神学的に言えば、
「義認と聖化とはどのような関係にあるか」
という問題です。
         
聖化は義認の原因ではありません。
言い換えれば、
人が義とされるのは、その人が聖となることに基づいているわけではありません。
それとは逆に、
聖化とは、義認の結果生じる直接的で自発的な働きです。
言い換えれば、
人は義とされると、すぐに自分からすすんで神様の御心にかなうことを行うようになるものだ、ということです。
                
神様の言いようもないほどに大きな愛をどれほど深く理解できるかに応じて、どのくらい私たちが神様を愛して、神様に仕え、捧げることができるか、が決まるのです。
まさにそのゆえに、教えの基本的なことがらを集中して学ぶのは、いつも教会にとってよいことなのです。
            
教えと生活を互いに正反対なものとして位置づけることはできません。
正しい教えによって生活は正しい方向に導かれます。
もしもそうならない場合には、教えをもう少し正確に確認してみる必要があります。
クリスチャンの生活は、その心にあることを示す尺度にすぎません。

2010年4月21日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章1~6節 その1

   
クリスチャンにふさわしい生活
   

エフェソの信徒への手紙 第4章
       
「エフェソの信徒への手紙」のはじめの3章は神様の奥義と福音の深さについて語っています。
第3章の最後の数節はこの第1部の儀式的な晴れやかさをともなった終結部となっています。
これからはじまる第2部で、「エフェソの信徒への手紙」は「クリスチャンにふさわしい生活」について語り始めます。
 
     
4章1~6節 その1
    
多くの手紙でパウロは、まず、キリストが私たちのためにしてくださったことについて幅広く語ります。
そして、その後で、このキリストのみわざが私たちの生活にあたえる影響についての話に移っていきます。
話題が最初のものから次のものに移る箇所は、しばしば祭典的な美を湛えており、そのおごそかさは他の箇所とはっきり区別されるほどです。
たとえば、「ローマの信徒への手紙」12章1~2節や「ガラテアの信徒への手紙」5章13節以降がそのような箇所です。
このようなテーマの移行が見られるのが、今扱っている1~6節なのです。
       
牢につながれた男がクリスチャンたちに、 「へりくだり優しく忍耐強く生活して、教会の一致が保たれるようにしなさい」、 とおごそかに諭しています。
今ここで与えられている倫理的な生活規定は、ほかでもない教会生活に関わるものです。
そして、誰も教会の一致を、間違った信仰や愛のない生活態度によって、汚してはならないのです。

2010年4月19日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 第3回目の終わりのメッセージ 

第3回目の集まりのためのおわりのメッセージ

「あなたがたは真理の御言葉、すなわちあなたがたの救いの福音を聴いたのです。」(「エフェソの信徒への手紙」1章13節より)

この言葉の意味を注意深く考えてください。
なぜなら、そこには私たちに、キリストにあずかるための唯一の道、唯一の手段が示されているからです。
ここで使徒がはっきりと言っているように、私たちは福音を聴くことによってキリストにあずかるようになります。
「ローマの信徒への手紙」でも、パウロは「信仰は聴くことから生まれ、しかし、聴くことはキリストの御言葉を通して実現します」(10章17節)と言っています。
今、キリストの御許に来て救いを理解したい人は、福音の御言葉を取り出して、どこからでも読みなさい。
それにより、聖霊様が御言葉を通して、その人が信仰にあってキリストを正しくしるようになるために、賜物によって光を与えてくださるからです。
   
そうしなければ、他のどのような仕事も戦いも努力もまったく無駄になります。
たとえ、血が出るほど自分を痛めつけたり、昼夜ひざまずいて祈り続けたり、荒れ野でひとりぼっちで暮らしたり、非常に粗末な身なりをしたところで、なんの役にも立ちません。
何をやってみたところで、もしも神様が福音の御言葉を聴かせることを通して、あなたを照らし、あなたがキリストをしるようにしてくださらないならば、あなたは良心の平和をえられず、キリストにあずかることも決してできません。
             
それゆえ、福音の御言葉は天地よりもはるかに価値のあるものなのです。
なぜなら、天地は、そこにある被造物すべてと力を合わせても、滅びゆく罪人のただひとりさえキリストの御許へと助け出すことができず、キリストにあずかるように導くこともできないからです。
ひとり聖霊様のみが、福音の御言葉を通してそれを行ってくださいます。
このように私たちにとって、この御言葉は本当に貴いものです!
私たちは、起きるときにも寝るときにも、道を歩くときにも座っているときにも、食べるときにも飲むときにも、この御言葉に学ぶべきです。
                 
ここで使徒は、「これはあなたがたの救いの福音です。それを聴くことであなたがたはキリストにあずかることができるようになりました」と言っています。
これはどういう意味でしょうか。
使徒パウロは数年前にエフェソの信徒たちに彼らの救いの福音を宣べ伝えました。
その福音とは、「神様が彼ら、のろわれた、神様に受け入れていただくのにふさわしくない罪人に、唯一の御子イエス・キリストにあって、さいわいな救いをすでに用意してくださっている」、というすばらしい、喜びに満ちたメッセージです。
          
またそれは、「罪の赦しと永遠の救いをいただくことは、今や、彼らが行ったよいわざに対する報酬としてではなく、キリストのゆえに神様の恵みのみにより、「彼らの所有するもの」となっている」、というメッセージでもあります。
          
この福音を信じて受け入れた者は、神様の子供となる力もいただきました(ヨハネによる福音書1章12節)。
その人はすでに信仰にあって救われており、キリストのすべての報酬にもあずかっています。
               
(F.G.ヘドベルグ「命の言葉」より)

2010年4月12日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」 第3回目の質問

第3回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第3章

パウロの教えは、教会が保たれるための基礎です。この基礎をしっかり守るとき、私たちは天のお父様のみもとに安心して帰ることができます。

1)多くの人にとり、パウロは間違いをおかすただの人間にすぎません。
これに対し、教会はいつの時代も、とりわけ「エフェソの信徒への手紙」3章2~7節に基づいて、「唯一の使徒的な教会」を信じてきました。
もしも教会がこの信仰を変更しようとするなら、それは大変な危険を伴うことだと言わなければなりません。
今私たちの国の教会は、どのような危険にさらされているでしょうか。

2)パウロは牢獄からこの手紙を書いています。
他の点でもパウロは、「キリストに所属する者は苦しみと慰めとを経験する」という奥義をよく体現しています。
この奥義について私たちは十分話し合ってきたでしょうか。
それとも、私たちはただ自分たちの快適さと成功を求めてきただけなのでしょうか。
このことに関係するイエス様のどのような御言葉をあなたがたは覚えていますか。
  
3)手紙の書き手は「お父様の御前でひざまずきます」(14節)。
神様を父親として表すこの言葉は、比喩でしょうか、それとも事実でしょうか。
  
4)17節には、「キリストが「御自分のものたち」の心の中に住まわれる」ことを語っています。
これはどういう意味でしょうか。
「ペテロの第二の手紙」1章4節、「ヘブライの信徒への手紙」4章2節、「ガラテアの信徒への手紙」2章20節を参照してください。
これと同じことを語っている聖書の箇所を他にも見つけることができますか。
  
5)16節には、「聖霊様がクリスチャンを強めてくださる」ことについて書かれています。
聖霊様は、どのような手段を用いて、こうしてくださるのでしょうか。
  
6)手紙の書き手は、「キリストの愛があらゆる知識よりも上方にある」ことを強調するべきであると考えています。
それはどうしてでしょう。

2010年4月6日火曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章14~21節

  
天のお父様の子供たち 3章14~21節
  
ここで扱う14~21節は「エフェソの信徒への手紙」のはじめの部分をしめくくっています。そこには、教会のための祈りと、神様への賛美が含まれています。
 
「神様が父だというのはたんなる比喩的なイメージに過ぎない」と主張する人たちがいます。
「神様を別のやり方で表現することもできるはずだ」というわけです。
ところが、15節は、「神様とは、その本当のお姿が私たちの生活の中へ映し出されているお方であって、逆に私たちの生活が神様のイメージを決定しているわけではない」ということを語っています。神様の父親としての愛は、美しい比喩にとどまるものではありません。
神様は私たち人間の肉親としての父の遠い原型にあたるお方であり、肉の父について私たちのもっているイメージは、神様がどのようなお方であるか、思いをめぐらすときに役立ちます。
  
現代社会に大きな影響を与えているフェミニズムは、キリスト教の領域にも独自の価値観を持ち込んできています。
ある人たちは、神様を父と呼んだり男性形の代名詞で表すことを拒絶し、神様を表す男性形の言葉をすべてそれらと対応する女性形の言葉に置き換えて、新しい信仰告白をつくることさえしています。彼らは、「聖書は族長中心の社会で生まれたので、男性中心的な書物だ」と考えています。
ところが、聖書は神様の活動を繊細に「母の愛」に比較しています(たとえば、イザヤ書66章13節)。
とりわけここで大切なのは、私たちと神様との関係は私たちに啓示されていることがらに完全に依存しているということを、確認しておくことです。
神様について私たちがしっているのは、神様御自身が聖書で教えてくださったこと以外にはありません。
そして、聖書でイエス様は神様を父を呼んでおられます。
聖書とキリストを差し置いて神様のことを追求しようとするある種のフェミニズムの「天才的な試み」は、実のところ根拠のない想像の産物にすぎません。
今ここで取り扱っている手紙の箇所は、「神様の父親としての愛は私たちの生活のために与えられた模範だ」と言っています。
ところが、私たち肉としての父親は、自分の子供たちが神様に、愛する子供たちが優しいお父さんに接するように、近づこうとする気持ちをかえって踏みにじってきたのではないでしょうか。
本当に恥じ入るべきことです。
残念なことに、「神様も私たちの父親だというのか、自分の父親だけでもうんざりしているというのに!」と言う若者が多いのではないでしょうか。
  
人生で一番大切なのが「知識」だと考えている人たちのことを念頭において、「エフェソの信徒への手紙」は書かれています。
彼らの言う「知識」とは、普通の意味での理性的な知恵ではなく、超自然的なことがらに関する知識であり、暗闇と光の諸霊が互いにどのような関係にあるかについての知識でした。
このような「知識」を我が物とした人は他の人間よりも高い境地に達している、というわけです。
「エフェソの信徒への手紙」はこのような物の見方に、穏やかな態度を保ちつつ反対しています。「神様に満ちているもの」を人間にもたらすのは、知識などではなく、キリストの愛なのです。
私たちは、キリストの十字架とキリストの御言葉への従順に、すべての関心を集中するべきです。
こうして、私たちは光輝く恵みの流れのほとりに何度も繰り返し導かれ、自分たちの心の渇きを癒していただけるのです。
  
20~21節は神様への賛美です。これは教会の礼拝で古くから用いられてきた賛美だと考えられています。