2010年3月31日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章1~13節 その5

3章1~13節 「特別待遇」を受けた男 (その5) 

ここで扱っている箇所で私を戸惑わせ感動させるのは、パウロがキリストの奥義について語っているときの、輝きあふれるばかりの喜びです。

神様はパウロを福音の僕として召してくださいました。
それはパウロにとって、鞭で打たれることや、生命の危険に身をさらすことや、鎖につながれることや、しまいには死ぬことを意味していました。
パウロはカイザリヤの牢獄で二年間閉じ込められました。
二度の冬の間、獄舎の気温は氷点下になったことでしょう。
もともと病弱の身であったパウロは、鎖をつながれたまま、牢獄から直接支配者たちの前に引き出されたときには、もはや見るも哀れな姿だったことでしょう(「使徒の働き」25~26章)。
また、「エフェソの信徒への手紙」が書かれた頃には、獄中生活はすでにパウロの健康をひどく蝕んでいたことでしょう。
ところが、手紙の言葉の中にはうらみめいたところが少しもありません。
それどころか、パウロは自身に与えられた召しについて大喜びしています。
昔の世代の人々は神様の永遠の奥義について何もしらなかったけれども、神様はパウロをその奥義の僕として召してくださいました。
パウロは「特別待遇」を受けた、深い感謝の心に充ちた男です。

現代に生きる私たちは、どのような気持ちで、鎖につながれた使徒の喜びに満ちた言葉を読むのでしょう。
ともすると人は少しでも傷つけられると、それを決して忘れずにいつまでも根に持ちつづけているのではないではないでしょうか。
どうすれば私たちは「エフェソの信徒への手紙」が映し出している「姿勢」を自分のものとすることができるのでしょうか。
手紙をここまで読んできた私たちには、答えがわかっています。
パウロがしたように、神様の恵みと愛の無限の素晴らしさをより深く見つめていくときに、それは可能になるのです。
まさしくここに、「エフェソの信徒への手紙」がもつ力があります。
それゆえに、この手紙を読むときには、あるひとつのことがなににもまして大切になります。
すなわち、神様はあなたを愛しており、その愛はあなた自身が決して理解できないほどに大きなものだということです。

まず立ち止まって、このことがわかるようになりなさい。
それからどんなことが次に起きてくるか、それはまたそのときの問題です。
それについても、ちゃんと神様が示してくださいます。苦難も含めて。

2010年3月25日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章1~13節 その4

3章1~13節 「特別待遇」を受けた男 (その4) 

「エフェソの信徒への手紙」では初めてになりますが、今私たちは「教会の職務」について話すことにしましょう。
今回のテーマは「使徒職」です。
私たちの信仰と理解によれば一回的なものであり、ある意味では教会ではもはや続いていないものとして、この言葉を用いています。
私たちはもはや「新しい使徒たち」を選び出したりはしないし、欲してもいません。
神様が御自分と御心を全世界に告げるときに用いられた預言者たちと使徒たちがいれば、私たちには十分です。
私たちはこの原則を守りたいと思います。
まさにそれゆえに、教会は常に「使徒的」な教会なのですから。

人間は教会の中央総会で、たとえばキリスト教とイスラム教を混同するとか、やりたい放題のことをすることができます。
しかし、そんなことをしても彼らは真実を変更することなどできません。
せいぜい自分自身と彼らの教えの追従者に害を与える結果を招くことになるだけです。
この世で最後まで留まりつづけるのは、使徒たちと同じ信仰を保ちつづける教会のみなのです。

2010年3月22日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章1~13節 その3

  
3章1~13節 「特別待遇」を受けた男 (その3) 
  
神様はこの秘密に仕えたいと思う者を、願いどおり「秘密の僕」として召してくださいます。
この召しのさいには、人間的な力とか、どのぐらいしっかりしているか、とかいったことが求められたりはしません。
神様の召しがその召された人を他の人よりも高い地位に置くこともありません。
パウロは自身の人生の中で神様の力が働くのをはっきりと見たのです。
パウロには、「かつてキリストを侮蔑し神様の教会を迫害した」という暗い過去があります(コリントの信徒への第一の手紙15章9節)。
こうした過去をひきずりながら、彼はいつも福音の仕事をしていました。

こういうわけで、彼はいつでもへりくだったまま、ただ恵みのみに頼って仕事をするように整えられました。
こうした姿勢をとおしてのみ、私たちもまた福音伝道の仕事をすることが可能になります。
そして、恵みに頼ることによってのみ、私たちは、神様に対して忠実であろうとするときに私たちや教会全体にやってくるさまざまな障害に耐えつづけることができるのです。

2010年3月15日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章1~13節 その2

    
3章1~13節 「特別待遇」を受けた男 (その2)
    
いくつかのわずかな言葉によって「エフェソの信徒への手紙」は私たちに聖書全体の「鍵」を与えてくれます。
旧約聖書全体は、「イエス・キリスト」という未来を目標として進んでいきます。
旧約聖書の中には、旧約の時代の状況のみに関係していて、現代の私たちを束縛したりはしないようなことがらも含まれています。
たとえば、モーセの律法による犠牲をささげる儀式の規定などがそうです。
しかし、神様の大いなる救いの御計画こそが旧約聖書の核心なのです。
そして、この核心が、旧約聖書を私たちにとって言葉では表現できないほど大切なものとしています。
私たちが今生きている現代の多くの人間にとって、旧約聖書は親しみを感じる書物ではありません。しかし、「エフェソの信徒への手紙」を読んでいくときに、私たちはこのことを根本的に考えなおしてみることができます。
聖書全体、その非常に難解な箇所や旧約聖書の極めて暴力的な箇所さえも、実のところ、キリストの大いなる「和解のみわざ」[1]について語っているのです。
神様、どうか私たちがこの秘密を見て理解できるように、私たちの心の目を開いてください。
  
[1] 十字架の死によってキリストが人間の罪を一身に引き受けてくださったおかげで、罪深い私たち人間と、義で聖なる神様との間に「和解」がもたらされた、ということ。(訳者註)

2010年3月11日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章1~13節 その1

    
鎖につながれたしあわせな男
 

エフェソの信徒への手紙 第3章
 
はじめのふたつの章でパウロは読者を神様の恵みのみわざの秘密の中に導いていきました。
今回取り扱う第3章で、パウロは神様の大いなる御計画をおさらいしています。
とりわけ感動的なのは、無実の罪で鎖につながれた男が、自分の身の上をちっとも苦にしないで、熱心に喜んでこの手紙を書いている姿です。
 
 
3章1~13節 「特別待遇」を受けた男 (その1)

パウロは、はじめの節でつづり始めた文章を中断してもうひとつのことがらに移っていきます。
こうした書き方はパウロによく見られます。
パウロは手紙を力強く書きすすめているとき、書いていることがらに没頭しています。
ところが、新しいことがらが彼の心をとらえてしまいます。
彼の言葉は直接心から出てくるものです。
まさにそのゆえに、それらの言葉は私たちにとって愛するべきものになっています。
 
2~7節では、「福音は人間から出た教えではない」、ことが再び強調されています。
福音は、神様の御心によって世界を自分のものとするために動き回っているのです。
パウロも、熟慮を重ねた末に「福音宣教者」になったわけではありません。
神様は使徒や預言者たちに「秘密」をあきらかにしてくださいました。
そして、その秘密は神様の御意思の究めがたい深みの中に太初からあったものでした。
 
神様のもともとの御計画は、すべての人をキリストにおいてひとつの民として御許に招くことでした。
この計画は人間界における数え切れないほどの世代交代の中でずっと秘密にされたままでした。
神様は救いのみわざをある特定の民の只中で準備なさいました。
つまり、イスラエルだけが神様に属しており、他の民は外に追いやられていたのです。
神様の隠された御計画に基づいて、あらゆることはただひとつの時と、ひとつの大いなる出来事に結実していきます。
堕落した人間界全体は、キリストにあって、「神様のもの」としてあがないだされ、こうして、ユダヤ人も異邦人も一緒にキリストの教会を形成するようになる、という計画です。
 
このように、キリストのみわざはただひとつの民とか何人かの人々にだけに関わりのあるものではありません。
それは世界全体を包み込む広がりをもっています。
そして、その中には今聖書を学んでいる私たちも含まれています。
キリストのみわざが私たちにも関わりのあることだったという事実を、私たちが変更することはできません。
  
私たちができることは、キリストのあがないのみわざを敬うか、あるいは、それを自分には関係ないものとして否定し滅びの道を選ぶか、という二つのうちのどちらかしかありません。

2010年3月3日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 第2回目の終わりのメッセージ

  
  
第2回目の集まりのためのおわりのメッセージ
 
天のお父様、あなたは、
あなたの貧しく惨めな子である私を、
永遠の命をうけつぐために、
創造し、
貴いあなたの御子の血によってあがない、
あなたの聖霊様によって聖としてくださいました。

私は嘆きつつあなたに心から告白しますが、
人間的な盲目のゆえに、
私は、
このもっとも高価でまことに偉大な賜物である「永遠の命」が
どれほど大切なものか、
一度も理解したことがなかったのです。

永遠の命について、
それにふさわしいやり方で私は喜んだことがないし、
そのことを考えることによって、
慰めを受けることもありませんでした。
私は永遠の命を心の底から慕い求めたことも
ありはしませんでした。

残念ながら、
私の心はこの世的なことに向いていて、
世や、
目の欲求や、
肉の欲望や、
贅沢な生活の方を、
私はより多く愛してきました。

愛するお父様、
私のこの大きな罪と愚かさを赦してください。
私の心から、魂を汚しそれに反抗する、
世への愛着や、
はかない栄光への執着や、
肉的な欲望を、
根こそぎ抜き去ってください。

何のために
私がつくられ、
あがなわれ、
聖とされたか、
私が理解できるように助けてください。

私は、神様、
他の何よりもあなたを探し求め、
あなたのみを愛し、心から慕うために、
そうして、
あなたと永遠の命以外は何も望むことがないように、
また、
あなたより他のものを慕ったり願ったりしないように、
つくられ、
あがなわれ、
聖とされたのです。

ちょうど鹿が小川を慕うのと同じように、
私の魂もまたあなたを慕い求めるように、
私の中に
永遠の命への聖なる渇きを起こしてください。
いかなる苦労や圧迫や迫害や悲しみも
私をこの希望から引き離すことがないように、
助けてください。
なぜなら、私は、
私のあがない主が活きておられることをしっており、
この方に私がおいている希望は、
私を恥ずかしい目にあわせることなどは許さないからです。
どうか、あらゆる十字架と苦しみの中で、
永遠の命の希望が
私を慰め、喜ばせ、
そうして、
悲しみをみな和らげて取り除いてくださいますように。

ヨハン・アルント 「楽園の薬園」

2010年3月1日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」第2回目の質問

  
  
第2回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第2章

自分の力によって神様に信頼するようになる人はひとりもいません。私たちは霊的に死んだ者です。しかし、神様はキリストにあって異邦人もユダヤ人も同じように「活きた者」としてくださいました。そして、キリストが成し遂げてくださった救いのみわざの中で、彼らを分け隔てている壁を取り除いてくださいました。教会において神様は両者をひとつの「神様の家族」とし、「神様の神殿」としてくださいました。そこでは誰でも「神様の家」として一緒に結びつくことができるのです。
 
1)第2章の最初の節はエフェソの信徒たちの過去についてどのようなことを語っていますか。彼らの状況はこの手紙が書かれた時点ではどのようなものでしたか。彼らが変わったのはどうしてだったのでしょうか。その理由をが考えてみてください。なぜエフェソの信徒たちは自分で自分を「活きた者(クリスチャン)」とはできなかったのでしょうか。
 
2)第2章によれば、神様が私たちを「活きた者」となさいます。それはどのように起こるのでしょう。あなたがたの場合には、それはどのように実現しましたか。神様が私たちを「活きた者」としてくださったことを思い出して、私たちは神様に感謝してきたでしょうか。
  
3)クリスチャンの心が冷えたり、あやふやになるときに、その人はどんなことを考えるべきなのでしょうか。そのようなときにもその人は自分をやはりクリスチャンとみなすことができるのでしょうか。
  
4)「エフェソの信徒への手紙」はクリスチャンとキリストをはっきり区別して語ることができません。なぜなら、洗礼が両者をひとつにしているからです。このことは私たちにはなじみのないことに感じられるでしょうか。洗礼について私たちは十分に話し合っているでしょうか。ここでは(幼児洗礼を否定している)再洗礼派のことを意味しているわけではありません。
   
5)「エフェソの信徒への手紙」は教会を神殿建築に比較しています。この神殿が使徒や預言者の敷いた礎石の上に建てられている、というのは、どういう意味でしょうか。「隅のかしら石」とはどのような石ですか。教会は礎石からずれて移動することができるでしょうか。もしもそれが可能ならば、どのようにしてそれは起こるのでしょう。