2010年2月19日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章11~22節その3


2章11~22節 しかし、彼らは異邦人でしょう?(その3)

「エフェソの信徒への手紙」の第2章は私にとって個人的にとても大切な聖書の箇所です。

「もしかしたら私は聖書全体をまったく誤解してきたのではないか」という疑問を、私は何年間にもわたって自分に投げかけてきました。
詩篇139篇の最後の数節がしばしば私の心の中にありました。
「神様、どうか私を探ってください。もしも私が間違っているなら、私を正しい道に導いてください」と。
そのようなときには、
私はよくこの「エフェソの信徒への手紙」の第2章を開いて、
「これを間違って理解するのは不可能だ」
と再度確認するのが常でした。

それは無条件で完全な恵みの章です。
本当にすばらしい章です。

ずっと後になって、
ユダヤ人と異邦人との間の区別に注目するようになったときに、
この章はさらに新しい深みを帯びたものとして私の心をとらえるようになりました。

この章を読んで、恵みの福音を深く学んでください。
これよりもよいものはこの世界にはないし、また、ありえませんから。

2010年2月18日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章11~22節その2

 
2章11~22節 しかし、彼らは異邦人でしょう?(その2)
 
「エフェソの信徒への手紙」第2章は私たちの目の前に非常に壮大な絵を描き出しています。
このように充実した内容にみちた章を解きほぐしていくのは、やりがいのある仕事です。

まず、教会について多くのゆたかなイメージが用いられていることに、私たちは気がつきます。
教会は神様の民であり、「新しい人」(15節)すなわち神様の家族であり、神様の建物です。
これらすべてのイメージは、神様の救いのみわざがどのようにして「神様のもの」である新しいグループを生み出してきたか、を目に見えるように描き出しています。

これからわかるように、教会は「エフェソの信徒への手紙」では肯定的な意味のみを担っています。昔も今もこれからも、教会をつくりあげることができるのは、神様以外の誰でもありません。
人々ができることといえば、教会を分裂させ腐敗させることぐらいです。

次に、キリストの教会がどのようにして預言者や使徒の基礎の上に築かれているか、見てみましょう。「ルーテル教会信条集」はこれについて次のように述べています。

「旧新約聖書の預言者と使徒の書物は、あらゆる教えと教師が吟味されるさいに用いられる、唯一の規則であり指針です。
「あなたの御言葉は私の足元を照らすランプであり、私の道を照らす光です」(詩篇119篇)
と書かれていますし、聖パウロも
「たとえ天の御使いが現れて(御言葉と)ちがうことを宣教したとしても、その天使はのろわれてしまうがよい」
と言っています。
他のどれほど有名な昔や今の教師の書いたものであれ、
それらを聖書と同等なものとみなしたりはせずに、
すべて聖書よりも下位に置かなければなりません。
それらは、
「どの場所でどのように預言者と使徒の教えが使徒たちの時代の後にも保存されていたか」
について語っている「証人」としてのみ用いなければなりません」(和協信条)。

聖書を通して私たちに話しておられるお方以外の何者をも、
私たちは神様としてしったり告白したりはしません。
預言者と使徒のメッセージが教会をつくり、維持します。
他のものはいつか燃え尽きてしまう「わら」にすぎません。
私たちに与えられているメッセージを勝手に変更する権利など、私たちにはありません。
私たちにできるのは、それをさらに先へ、次の世代へと伝えていくことだけです。
そして、神様の御言葉は真理であることをしっかり信じ続ける勇気を持つべきです。

2010年2月15日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章11~22節その1


2章11~22節 しかし、彼らは異邦人でしょう?(その1)

この章の終わりの部分の背景として、ユダヤ人と異邦人の間に存在していた「溝」を考えに入れておかなければなりません。

手紙の受け取り手たちは、以前は神様とはまったくかかわりがなく、神様の民からも隔てられ、希望もなく生きていました。
ところが、今やキリストの血が彼らを遠くから神様の近くへと連れてきました。
そして、神様の恵みにあずかり、神様の民の一員とされたのでした。

「エフェソの信徒への手紙」は見事なイメージを用いつつ(実は非常に多くのイメージを何重にも)、「神様の建物」について語っています。
神様はキリストにあって、ユダヤ人と異邦人を分け隔てている壁を取り去りました。
そうして、両者をひとつの神様の神殿としました。
この神殿は使徒や預言者(の伝えた神様のメッセージ)を基礎として建てられています。
その壁は洗礼を受けたユダヤ人と異邦人とから構成されており、隅のかしら石はキリスト御自身です。
私たちのよく知っている十字架の形は、テキストが語っている出来事を視覚化します。
すなわち、神様はキリストにあって、すべての人間との平和を築かれました。
十字架の縦の木は、天と地との間のつながりを示しています。
一方、神様はユダヤ人と異邦人を隔てる壁を取り除かれました。
十字架の横の木は、人々の間の新しいつながりを示しています。
こうして、異邦人はもはや他人や外国人ではなく、神様の家族の一員であり、神様の民となったのでした。

2010年2月10日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章1~10節

2章1~10節 昔と今

「エフェソの信徒への手紙」は、手紙の受け取り手の前の状態と後の状態を互いに反対のものとして位置づけています。
ここで問題になっているのは、彼らが皆、以前は人殺しや泥棒だったのに、今はまったく違う者になっている、ということではありません。
彼らの状態が神様の真理の光の中で、以前はどのように見え、また今はどのように見えるのか、という点がポイントです。

以前は、彼らは自分の罪の中に死んでいた者たちでした。
彼らは神様とはなれて暮らしており、サタンの支配下にありました(「エフェソの信徒への手紙」ではこれよりも優雅に表現されています)。
彼らの生活が彼らの心の中にあることをあきらかに示していました。
このように彼らは「怒りの子供たち」であり、最後の裁きと永遠の滅びを待つばかりの身でした。

実はパウロはここで、「ローマの信徒への手紙」第1章にあるのと同じことを描き出しているのです。「テサロニケの信徒への手紙」1章9~10節も同じことを、「異邦人は偶像を礼拝し、来るべき裁きを待っている」と鋭く簡潔に語っています。

「前」と「今」は激しく対立しています。
憐れみの心に満ちておられる神様は、その大いなる愛のゆえに私たちを愛してくださいました。
そして、私たちを死者の中から目覚めさせ、キリストと共に活きるようにしてくださいました。
また、私たちをただ恵みにより救い出し、キリストと共にいる天国の民としてくださいました。
このように、手紙の受け取り手は、私たちと同様に、
以前は自分たちの罪の中に死んで、神様から離れ去り、滅びへの旅路にありましたが、
今や、キリストのゆえに、彼らは新しい命へと目覚めさせられました。
そして、彼らは「神様のもの」となり、永遠の命へと旅立ったのです。

この二項対立の中に、パウロの神学の核心がすべて短く描き出されています。
ここでは、その対立関係を際立たせて理解するのが大切です。
全世界はひとつの深く暗い罪の吹き溜まりであり、そこには一筋の光も差し込むことはありませんでした。
ところが、神様は、キリストを私たちの罪のために死なせ、また、死者の中からよみがえらせることによって、すべてを変えてくださいました。
ここにこそキリスト教の信仰の心があるのです。

こうして、神様の救いのみわざは人間界にまったく新しい状況をもたらしました。
「前」と「今」という二項対立は、人々の生活の変化にではなく、ただ神様の恵みに基づいていることがらです。
「私たちが神様の子供である」ということは、私たちの生活に多くの変化をもたらします。
しかし、それはここで扱っていることとは別のことがらであり、それについては後で触れることにします。
今ここで大切なのは、
それ(クリスチャンの生活の変化)を神様の恵みのみわざと混同しないことです。
神学的に言えば、聖化と義認とを混同してはならない、ということです。

2010年2月8日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章その4

行き止まり?


パウロの宣教した福音は、皆が驚くような実を結びました。小アジアや大陸沿岸のギリシアのあちこちには、パウロが開拓伝道した教会がありました。教会員はモーセの律法に従って割礼を受けるべきだ、と主張する教師がこれらの教会に現れたときに、激しい衝突が起きました。こうした戦いの中で生まれたのが、ガラテアの信徒への手紙であり、ローマの信徒への手紙です。キリストとその死のみが唯一の救いの理由であることを、パウロは最後まで確固として主張しつづけました。この論争を解消するために、パウロはしまいにはエルサレムに出発しました。そして、彼は捕らえられました。


エフェソの信徒への手紙では?

「エフェソの信徒への手紙」においては、激しい論争はすでに過去のものとなっています。神様の救いのみわざと、その理解を超えた奇跡全体を、調和と美を保ちつつ提示する時が熟したのです。まさしくこの第2章で、ユダヤ人と異邦人との関係が話題として取り上げられます。この手紙の受け取り手の大部分は異邦人として生まれた人たちでした。今、私たちは「エフェソの信徒への手紙」の教えの核心にいるのです。

2010年2月3日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章その3



異邦人伝道のはじまり

キリストが御自分の弟子たちを被造物すべてに福音を宣べ伝えるために世界中に派遣されたとき、当然ながらこの派遣命令は「異邦人への伝道」も意味していました。
しかし、どのようにしてでしょうか?

注意深い読者は、「使徒の働き」が、ユダヤ人と異邦人の間に古くからある境界線を越えることがいかに難しかったかについて語っていることにはっきり気がつくことでしょう。

意思に反しつつも、聖霊様に促されて、使徒たちは福音をまずはじめにサマリア人に伝える勇気を得ました(使徒の働き第8章)。
そして、それから最初の異邦人たちに洗礼を授けることができました(使徒の働き第10~11章)。

アンティオキアの教会に派遣されたパウロとバルナバは、すでに最初の宣教旅行で福音を伝えていきました。その福音によれば、異邦人たちはモーセの律法に従うことを要求されません。また彼らには割礼を施す必要もありません。ナザレのイエス様は御許に異邦人もお招きになっているのです。

エルサレムにいたクリスチャンの中には、「信じて洗礼を受けた異邦人はまだ真のクリスチャンではない」、と考える人たちがいました。そこから激しい論争が巻き起こりました。
彼らの意見によれば、そのような異邦人もまたモーセの律法を遵守して、そのしるしとして割礼を受けるべきだ、ということになります。
この問題を解決するために、エルサレムでは使徒の会議が開かれました。
会議の雰囲気は熱気を帯びていました。
この会議について、パウロ(ガラテアの信徒への手紙第2章)とルカ(使徒の働き第15章)は互いに少し異なった形で報告しています。
この会議では以下のことが決められました。
モーセの律法に従うことはユダヤ人にとっても異邦人にとっても「救いの道」ではないこと、
(モーセの律法はもともと異邦人に対して与えられたものではないため)異邦人はモーセの律法から自由であること、
異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンとの共同生活をある種の規定によってある程度まで容易なものにすること(「使徒の働き」による)、
パウロはどこであれ異邦人クリスチャンの間で、エルサレムの初代教会の貧しい人たちのために、愛の献金を集める責任を受け持つこと、
です。

2010年2月1日月曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章その2



ユダヤ人と異邦人

「エフェソの信徒への手紙」第2章を読む上で欠かせない背景知識は、
当時の世界にあったユダヤ人と異邦人との間の区別です。

私たち現代人にとって、この問題を理解するのは容易ではありません。
私たちにはこれについて日常での経験が欠けているからです。この問題は、私たちが聖書を理解するのをもっとも妨げている問題のうちのひとつだと、私は思っています。
とりわけ、「ローマの信徒への手紙」と「ガラテアの信徒への手紙」、それともちろん「エフェソの信徒への手紙」を理解しようとするときに、この問題が関係してきます。

誰が異邦人か、という問題の核心は次のようにまとめることができます。
神様は約束をアブラハムとその子孫にお与えになり、イスラエルを御自分の民に選ばれました。
たしかにすでに旧約聖書が、
神様はこのように人間界全体に近づき、
イスラエルの民を諸国民の祭司のような存在とし、
アブラハムにおいて世のすべての諸国民を祝福することを望まれていることを、
私たちに思い起こさせてくれています。

にもかかわらず、ユダヤ人と異邦人との区別は明瞭で厳密なものでした。
ユダヤ人たちは真の神様を礼拝し、モーセの律法を所有していました。
それに対して、他のすべての諸国民は道を見失い、偶像を礼拝していたのです。

当時の日常生活は実際にそのとおりであったことを証明しています。
ユダヤ人たちは自分の居住区に住むのを常としていました。
そして、異邦人のもとを訪れたり、彼らと共に食事をしたり、彼らと婚姻関係を結んだり、彼らと同じ宗教的な行事を行ったり、彼らと同じ神様を礼拝したりはしませんでした。

もちろん、周囲の環境に多かれ少なかれ溶け込んでいったユダヤ人たちも中にはいました。
しかし、神様を畏れるユダヤ人にとっては、
異邦人から分離することは、命のかかったことがらだったのです。