2008年4月29日火曜日

イスラエルとは何でしょうか?

エルッキ・コスケンニエミ  (フィンランド福音ルーテル協会牧師、神学博士)


1.神様はアブラハムと契約を結び、彼を御自分の民として育んでくださいました(創世記15章)。この民にモーセの十戒が与えられました。そして、唯一この民「イスラエル」のみが「神様の所有の民」となったのでした(出エジプト記19章3~5節)。他のすべての異邦の民は偶像を崇拝していました。ただイスラエルのみが真の神様に仕えていたのです。神様のすべての約束はイスラエルに対してのみ向けられていました。一方では、神様がひとつの民を選ばれたのは、神様がすべての民に近づかれたことを確かに意味していました(出エジプト記19章5~6節)。

2.イスラエルは神様に対して絶えず反抗していました。神様はそのようなイスラエルを懲らしめました。しかし、再び御自分の民を憐れまれ、預言者たちを派遣してくださいました。預言者たちはイスラエルに悔い改めるように説教しました。そして、真の王国を築き上げる「来るべき王キリスト」について預言しました。

3.キリストがこの世にやって来られた時、神様の民はキリストを受け入れないどころか、この方を十字架につけることを要求しました。しかし実は、このようにして神様の隠された御計画が実現したのです。それは、ゴルゴタの十字架でイエス様が成し遂げてくださったこと、すなわち、「人を罪ののろいから救い出す」というあがないのみわざでした(イザヤ書53章)。キリストは死者たちの中からよみがえられたとき、すべての民を御自分の弟子とするために使徒たちを派遣されたのでした(マタイによる福音書28章18~20節)。このようにして今や神様は、御自分の所有の民イスラエルだけではなく、すべての民に近づいてくださったのでした。

4.イスラエルの立場は今はどうなっているのでしょうか?最も大切な聖書の箇所はローマの信徒への手紙9~11章です。ここから私たちは3つのことを学びます。

1)イスラエルはキリストを見捨て、神様から離れ去りました。こうして神様の恵みをいただく権利を完全に失ったのでした(ローマ10章21節)。イスラエルの代わりに、神様は異邦の民を招かれました(ローマ9章24~25節)。この新しい民は「神様のイスラエル」と名づけられています(ガラテアの信徒への手紙6章16節)。

2)しかしながら、イスラエル全体が神様から離れ去ったわけではありませんでした。なぜなら、そのうちの何人かはキリストを信じたからです。こうして神様は、イスラエルの父たちにお与えになった約束を忠実に守られたのでした(ローマ11章1~5節)。

3)神様はこれから再びイスラエルを招いてくださることになっています。そして、時の終わりに、この招待は受け入れられるのです。こうして神様は御自分の民を憐れんでくださることになるのです(ローマ11章25~26節)。

今私たちは、イスラエルとユダヤ人とをいろいろな角度から見ることができます。イスラエルは「神様の所有の民」であったし、今もそうです。しかし、彼らは今はまだ心をかたくなにしたままでいます。もしもキリストを受け入れず拒むならば、たとえ「神様の所有の民」に属していても、救われることはありません。
私たちは、神様が御自分の約束を思い出して、イスラエルをキリストのみもとへと方向転換させてくださるように、祈ります。

5.私たちは、イスラエルの歴史を調べることで、多くを学ぶことができます。神様は、イスラエルにたくさんのことを与えてくださいましたが、イスラエルは、キリストを拒んだときに、そのすべてを失ってしまいました。私たちが神様の子供であり、キリストの教会、すなわち「神様の新しいイスラエル」に属しているのは、神様からいただいた恵みによるのです。一方で私たちは、「もしも神様が生来の枝を惜しまれなかったのならば、あなたのことも惜しまれはしないだろう」という警告も受けています。キリストにおいてのみ救いがあります。そして、キリストを捨て去る者たちの受ける分は滅びです。

(日本語版翻訳編集 高木賢 フィンランド福音ルーテル協会職員、神学修士)

2008年4月11日金曜日

原罪 あらゆる罪の源



原罪 あらゆる罪の源

パシ パルム


「悪い人などはいない。ある人はほかの人より弱いだけだ」とある詩人は言いました。今でもこうした考えに同調する人は多いようです。赤ちゃんの洗礼式に参加する人の多くは、だっこされている赤ちゃんの「罪深さ」について話す牧師の言葉に戸惑いを覚えます。自分が受け入れた「宗教的な教え」に従って、自分を「罪のないよい存在」に変えようといくら努力してもうまくいかないために、絶望してしまう人もいます。これらの例は、原罪についての聖書の教えが理解されていないか、あるいは認められてはいないことを示しています。

最初の人間たちの堕落の結果として、人間全体が罪の支配下に陥ってしまいました。人は皆、このように霊的に死んだ、不信仰と悪い欲望にまみれた状態の中へと生まれてきます。つまり、人は神様とその御心に反抗する態度をもって、生まれてくるのです。このような状態にある人間は滅びるほかはありません。ところが、人が洗礼と信仰を通して新しく生まれる場合には話が変わってきます。クリスチャンは、「罪の赦し」を信仰によって「自分のもの」としており、洗礼においてそれを賜物として与えられているがゆえに、原罪のもたらす「罪悪感」から解放されています。しかし、この世で生きている限り、原罪による「腐敗」はクリスチャンの中にも依然として残存し続けます。そして、原罪による腐敗は、さまざまな「行いによる罪」として、日常生活の中ですべての人の考えや話や行いの中に例外なく噴出してきます。



原罪を否定するいくつかの意見があります。

1)人は根本的には悪ではありえない。なぜなら、人は多くの自己犠牲的なよい行いをすることができるからだ。

2)聖書は原罪について何も言っていないではないか。原罪についての教えは、教会が「幼児洗礼」を正当化するために捏造したのさ。

3)もしも神様が「人が自分で行ったわけではないこと」のゆえに、その人を裁くというのなら、神様は公正ではない。



これらの主張に対する答えは次のとおりです。

1)人は神様の御創りになった存在であり、もともとは(神様にそのままで受け入れていただけるような)「義」なる存在でした。人間全体の罪の堕落の後も、人はどうにかこうにか「外面的な義」(たとえば、仕事をし、家族を養い、困っている人たちを憐れむことなど)を実現することができます。しかし、人の中には、神様の御前にして(自分を正当化できるような)「心の義」はないのです。


2)「聖書には原罪についての教えがない」というのは正しくありません。なるほど聖書は「原罪」という言葉を用いてはいませんが、その存在を前提としています。たとえば、マタイによる福音書1519節、ヨハネによる福音書36節、詩篇517節、ヨブ記144節、ローマの信徒への手紙3912節、51819節、エフェソの信徒への手紙213節を読んでください。

3)神様は公正なお方です。それに対して、人が腐敗しているのです。犯罪者が裁判官を批判する立場に立つのは不可能です。どんなにそうしたいと思ってもです。人はアダムと同じ状況に置かれた場合には、誰でも皆アダムと同じように行動したことでしょう。私たちはこの問題に関しても「聖書の生徒」であり続けたいと思います。

4)だっこされている赤ちゃんのことを考える場合には、「罪はたんに行いのみではない」ことを思い起こしましょう。行いは考えから出てきます。そして、考えもどこからか出てくるのです。人は、悪い行いをするから、罪人なのではなく、逆に、人は、罪人であるがゆえに、悪い行いをするのです。