2008年1月22日火曜日

「結婚前の性的関係、同棲、結婚」と聖書

エルッキ・コスケンニエミ

とりわけクリスチャンの若者の間で一番興味をもたれまた大切なテーマは、聖書は結婚前の性的関係について、婚約について、またいつ結婚が正式に始まるかについて何を教えているか、ということです。
これから旧約聖書と新約聖書の背景、すなわち神様の御言葉をふまえて、このテーマを考えてみることにしましょう。

フィンランドの現在の状況を考えるために、その歴史的背景を知っておく必要があります。フィンランドでは「同棲」が社会的制度として認められています。それは1960年代までは非常にまれだったものの、その後急速に増え広がりました。この一般的な状況の変化とともに、教会の一般的な教えは「結婚前の性的関係が罪である」ことに対して確信を失ってしまいました。議論の的となったのは「結婚が正式に始まる瞬間」です。
「結婚に基づく性的関係は本当に結婚式での「牧師のアーメン」の後から始まるのだろうか。結婚前に一緒に生活することを試してみてもよいのではないか。外面的な「結婚式」という儀礼などなくても。その代わりに当事者同士で交わされた約束で十分ではないか」などという主張がなされました。


1.旧約聖書

旧約聖書は「結婚」を非常に敬い大切にしています。このことはすでに創世記の2章にあらわれており、結婚が社会における基本的な単位を構成していることを告げています。興味深いのはこのことを裏付ける次の規定です。婚約したばかりの男性は戦争に参加してはならず、自分の妻のそばにいなければなりませんでした。

「女性と婚約して、まだその女性と結婚していない者があれば、その人を家に帰らせなければなりません。そうしなければ、彼が戦いで死んだ場合に、他の人が彼女と結婚するようになるでしょう。」(申命記20章7節)

旧約聖書の世界では多くの点で家族の父親が中心的な役割を担っています。中近東での一般的な慣習と同様に、イスラエルでも両親が自分の子供の結婚式の準備をしたと思われます。もっともモーセの律法はこのことについては何の規定も設けてはいませんが。

旧約聖書の世界では「結婚する時に花嫁は処女でなければならない」ことは自明でした。結婚する時に花嫁が処女ではなかった場合について、申命記22章20~21節は花嫁に対して死刑を定めています。この規定は創世記38章のユダとタマルの出来事にも関わっています。

重大で死刑にあたる犯罪としては他に「姦淫の罪」がありました。これは結婚している男性が他の人の妻と性的関係を持つことを意味しています。一方で、旧約聖書には男たちが道端の娼婦と性的関係をもちながらも罰せられなかったように見える記述があります(たとえば前述の創世記38章のユダの振る舞い)。このように旧約聖書は中近東の(男性と女性に対して別々の)「二重道徳」を浮き彫りにしていますが、モーセの律法にはそのような二重道徳を正当化するような規定はまったくありません。


2.新約聖書

A) どのように人々は結婚しましたか。

ユダヤ人たちの結婚はおそらくすでにイエス様の時代に三つのことなる段階を経て実現しました。まずはじめに「婚約」です。人が婚約する時に花嫁と花婿の両親は結婚式について話し合って決めます。この後に花嫁の家で証人を前にして結婚の誓約がなされ、花婿は花嫁に贈物を届けます。性的な肉体関係はまだ許されていませんでしたが、この段階では結婚を取り消すことはもはやできませんでした。第三番目の最後の段階はおそらくそれから一年たってようやく実現しました。その時にけたたましい歓喜に包まれた結婚式のお祝いの中で花婿と花嫁は最終的に「結婚」しました。その日には友人たちが花嫁を花嫁の家でお祝いの服に着替えさせます。そして花婿の訪れを待ち始めます。花婿が友達と共に姿を見せると、中東的なにぎやかな結婚のお祝いが始まります。そこでは花嫁と花婿は喜びを分かち合っている周りの人たちによって彼らの新居に運ばれていきます。

私たちはこのような「結婚」の仕方に聖書のいろいろなテキストの中で出会います。マリアとヨセフは婚約していました。しかし、ヨセフはマリアに生れようとしている子どもがヨセフの子ではないことを知っていました。なぜなら、結婚前に性的関係をもつことは許されてはいなかったからです。イエス様は結婚のお祝いを、御自分の再臨や最後の裁きや天国での大いなる喜びを教える譬えのイメージとしてしばしば用いておられます。


B) 御言葉

このテーマに関係している新約聖書のもっとも重要な(ギリシア語の)言葉は「モイケイア」や「ポルネイア」やこれらの言葉と似た意味を持つ他の言葉です。

「モイケイア」は聖書では「姦淫」と訳されることが多くあります。そして「姦淫」は当然罪であるとして裁かれています。たとえばコリントの信徒への第1の手紙6章9~11節には人が神様の御国を受け継ぐことができなくしてしまうようないろいろな罪が挙げられており、姦淫もそのリストの中に入っています。しかしこのことは、旧約聖書がユダヤ人の信仰に与えている背景を知っている者にとっては驚きではありません。

もうひとつの言葉「ポルネイア」は「不品行」と訳されています。「モイケイア」が姦淫の罪に関係しているのに対して、「ポルネイア」は結婚の外部でなされる(男女間の)性的関係を意味する一般的な言葉です。この言葉はまたときには姦淫を意味することもあります。この言葉の基となっているのは「ポルネー」という言葉で、非常に古い歴史をもつある種の職業で自分を養っている女性のことを意味しています。つまりこの言葉の意味にははっきりとした色付けがなされています。そして、これらを聖書は厳しく罪に定めているのです。
さて今度は神様御自身が語られていることを聴きましょう。

「すなわち内部から、人々の心の中から、悪い思いが出て来ます。不品行(ポルネイアイ)、盗み、殺人、 姦淫(モイケイアイ)、貪欲、邪悪[1]、欺き、好色、妬み[2]、誹り、高慢、愚痴。」(マルコによる福音書7章21~22節)

「それとも、あなたがたは正しくない者たちが神の国を受け継ぐことはないのを知らないのですか。まどわされてはいけません。不品行な者たち(ポルノイ)、偶像を礼拝する者たち、姦淫をする者たち(モイコイ)、男娼となる者たち[3]、男色をする者たち[4]、盗む者たち、貪欲な者たち、酒に酔う者たち、そしる者たち、略奪する者たちは、いずれも神様の御国を受け継ぐことはないのです。」(コリントの信徒への第1の手紙6章9~10節)

「不品行(ポルネイア)を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にあります。しかし不品行をする者は自分のからだに対して罪を犯すのです。「あなたがたのからだは神様からいただいてあなたがたの内に宿っておられる聖霊様の神殿であって、あなたがたは自分自身のものではない」ということをあなたがたは知らないのですか。あなたがたは大きな代価を払って買いとられたのです。それだから、自分のからだをもって神様の栄光をあらわしなさい。」(コリントの信徒への第1の手紙6章18~20節)

「私が再びそちらに行った場合、私の神様があなたがたの前で私をへりくだらせることにならないでしょうか。そして、前に罪を犯していた多くの人たちが、その汚れと不品行(ポルネイア)と好色の中に活動を続け、それらを悔い改めもしないので、私は悲しむことになりはしないでしょうか。」(コリントの信徒への第2の手紙12章21節)

「肉の働きは明白です。すなわち、不品行(ポルネイア)、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、自分中心のグループを作ること、違った考え、異端、ねたみ、泥酔、度を過ごしたパーティー、またそのたぐいのことです。私は以前も言ったように、今も前もって言っておきます。このようなことを行う者は神様の御国を受け継ぐことがありません。」(ガラテアの信徒への手紙5章19~21節)

「また、不品行(ポルネイア)やあらゆる汚れや貪欲については、あなたがたの間では口にすることさえしてはなりません。そうするのが聖徒にふさわしいことだからです。」(エフェソの信徒への手紙5章3節)

「神様のみこころは、あなたがたが聖くなり、不品行(ポルネイア)を避け、各自、気をつけて自分のからだ(スケウオス、器)を聖く尊く保つことです。」(テサロニケの信徒への第1の手紙4章3~4節)

上に挙げた聖書の箇所の言い方には非常に厳しいものがあります。「不品行」を行う者(男性も女性も)について、彼らは神様の御国を受け継ぐことができない、と何箇所かで言われています。性的肉体関係は結婚にのみ属することです。ヘブライの信徒への手紙13章4節で言われている通りです。

「結婚はあらゆる点で尊いことです。また夫婦の寝床は汚れなく保たれるべきです。なぜなら、神様は不品行な者たち(ポルヌース)や姦淫をする者たち(モイクース)をお裁きになるからです。」(ヘブライの信徒への手紙13章4節)


C) クリスチャンではない人たちの結婚

興味深くまた大切なのは、聖書に根ざしている教会でその初期から今に至るまで続いている考え方です。海外宣教を行っている教会はクリスチャンではない人たちの結婚をまじめに受け止めてきました。コリントの信徒への第1の手紙7章は「夫婦のうち片方がクリスチャンでもう片方がクリスチャンではない場合、信仰者の方が信仰者ではない方を見捨ててはいけない」と明瞭に指示しています。この教えは、結婚がたんに人間の信仰に基づくものではなく、神様御自身が結婚を設定なさったことに基づいています。こうした理由から、たとえばクリスチャンになった夫婦を再び教会で結婚させることはありません。たとえば他の宗教のどのようなやり方で結婚式がもたれたにせよ、彼らはすでに「結婚」しているのです。


3.私たちは?

神様を見出した人たちにとって、結婚前の性的関係や結婚の外部での性的関係は重い罪です。現代どれだけ多くの人々が私たちの周りでそうしたことを行っているとしても、それらが罪であることはかわりません。

聖書が「結婚という制限を越えた性的関係」を拒絶している理由を、「神様はこの世界に結婚の外部で生れた子どもたちを望まなかったからだ」と説明付ける人たちがいます。「しかし、避妊の技術が発達した今、もはや以前と同じ問題はない」と言うのです。しかし、このように神様のお定めになったことの「背後」からこの問題を理解するための理由を探り出そうとするのは、非常に危険なことです。イエス・キリストは昨日も今日も永遠に同じです。この御言葉はもともとの文脈(ヘブライの信徒への手紙13章8節)の中では、「主はいつも同じなので、クリスチャンに与えられている規定もまたかわることがなくいつまでも同じだ」ということを意味しています。

それでは、私たちクリスチャンの結婚はいつ始まるのでしょうか?牧師が「アーメン」と宣言したときでしょうか?この世にはどうとでも解釈できることがらがいろいろあります。
しかし、「人が結婚しているかしていないか」ということはそうではありません。結婚は社会的なことがらであり、役人や法律家や結婚している本人がちゃんと知っていることです。人は結婚しているかしていないかのどちらかです。私は牧師としてたくさんの夫婦の結婚式の司式をしてきましたが、「結婚した」のは一回だけ、自分の結婚だけです。結婚式を司式するときに、結婚するのは私ではなく、結婚しようとしている夫婦です。私は彼らが互いに相手を結婚相手として受け入れ、結婚の責任と義務とを担う意志があるかどうか、彼らにたずねます。もしも彼らがそうする意志がある場合には、彼らは結婚したのです。牧師としての私の責任は祈ることであり、結婚式のあとで賓客を祝会のほうへと導くことです(もしも結婚式のときに「花嫁ミサ」を執り行わない場合には)。「同棲」は、それがたとえ社会制度的に認められている場合であっても、クリスチャンにとっては結婚前の性的関係にほかならず、罪なのです。

この小文の目的は、聖書が「結婚前の性的関係や同棲や結婚」について何を教えているか、はっきりさせることでした。こうした問題に関係して実際に起きてしまっている「混乱」に対してどのように対処していくべきかについては、また別に考える必要があります。こうした「混乱」を悪化させたのは、フィンランドの教会内にあるこのテーマに関する間違った教えです。「聖書によれば結婚前の性的関係は間違ったことであり罪である」ことを知っている人が今やいったいどれほどいるでしょうか。

主イエス様が罪人たちに対して、とりわけこの問題の領域で間違った道を歩んでいた人たちどのような態度を取られたか、ここで思い起こしましょう。いろいろな男たちにもてあそばれた女性がファリサイ派の家におられたイエス様のみもとに来て、それまでの自分ののろわれた人生と間違った生き方を涙と共に注ぎだしました。イエス様は彼女がそうするままになさいました。そして彼女を追い払うようなことはなさいませんでした。

「そして、(イエス様は)その女性に、「あなたの罪[5]は赦されました[6]」と言われました。すると同じ食事の席に連なっていた者たちが心の中で言いはじめました、「罪[7]を赦す[8]ことさえするこの人は、いったい何者だろう」。しかし、イエス様は女性にむかって言われました、「あなたの信仰があなたを救ったのです[9]。平和の中に行きなさい」。」
(ルカによる福音書7章48~50節)

以下の註は訳者によるものです。
[1] ここまでは複数形です。
[2] 「妬み」を直訳すると「悪い目」です。妬みの心は確かに目つきを悪くしますね。
[3] 「マラコイ」は男性の同性愛での受動的な役割の側を指します。
[4] 「アルセノコイタイ」は男性の同性愛での能動的な役割の側を指します。
[5] 複数形。
[6] 受動態完了形。
[7] 複数形。
[8] 現在形。
[9] 完了形。

2008年1月7日月曜日

「恵みの賜物」について聖書は何と言っていますか?

たとえばコリントの信徒への第1の手紙12章には「御霊の賜物」あるいは「恵みの賜物」についての教えがあります。今回はこの「恵みの賜物」について学びたいと思います。

「恵みの賜物」について聖書は何と言っていますか?

ヤリ・ランキネン


私たちは聖書を大切にしたいと思っています。聖書は「恵みの賜物が存在する」と言っています。神様の御霊は私たちルター派の信仰にとってなじみの薄い賜物や必要ないと思われるような賜物も与えてくださいます。もしも私たちが聖書的であるならば、私たちはこのような賜物を否定したり軽んじたりはしません。またこれらの賜物を用いることに反対したりもしません。

一方では、恵みの賜物を間違って用いないように忠告することも「聖書的」です。恵みの賜物を重視しすぎないように忠告することもそうです。聖書は、恵みの賜物自体は認めていますが、それらを間違って用いないように忠告してもいるのです。

ですから、あなたも神様の御言葉を前にして、心を開きなさい。聖書が言っていることを読みなさい。この問題についても実際にはどういうことであるか、聖書に説明してもらいなさい。聖書に反していることは拒絶しなさい。聖書が教えていることを受け入れ身に着けなさい。たとえその教えがあなたにとって新しく、あなたが以前考えていたこととは違っているとしてもです。このように行うのは本当に難しい場合があります。しかし、それは「安全な道」です。神様の御言葉は私たちを間違った道へと迷わせたりはしません。

私たちは皆それぞれ互いに異なっています。信仰を感情に結び付けて、信仰生活の中でのある種の体験の大切さを強調する人たちがいます。信仰にかかわることがらを理性的に考えて、個人的な体験はそれほど求めていない人たちもいます。私たちの人生の背景もそれぞれ異なっているし、今信仰の道のどのような局面を歩んでいるかも、人によって違います。そして、こうした違いは人が恵みの賜物に対してどのような態度を取るかにも影響を与えます。この違いは認めなければなりません。神様の御言葉もそれを認めています。この違いは神様の教会の中の「豊かさ」でもあります。ただし、神様の御言葉に従ってすべての人は信じまた働かなければなりません。


恵みの賜物とは何でしょうか?

恵みの賜物にはいろいろなものがあります。聖書から私たちは多くの例を見出します。病気を癒す賜物、知識を分ける賜物、いつ神様の御霊が話しておりいつ何か他の霊が話しているかを見分ける賜物、異言で話す能力、預言すること、教えること、他の人たちに仕える意欲、教会を指導する能力、自分のものを提供する意欲、貧しい人たちを助ける意欲、などです。これらのものは恵みの賜物についてのいくつかの例です。聖書は恵みの賜物の完全なリストを提供しようとはしていません。神様の教会を築き上げ、それがこの世でその使命を遂行することができるように助ける能力は、すべて「恵みの賜物」だと言えるでしょう。賜物の中には私たちがもともともってはいないものもあります。たとえば異言で語ることです。私たちの創造主が私たちをおつくりになったときに、私たちに与えてくださった賜物もあります。賜物を受けた者はそれを教会に仕えるために利用することができます。そしてそのような場合には恵みの賜物は正しく用いられていることになります。たとえば音楽の才能はこのような賜物です。あるいは指導したり教えたりする能力もそうです。あなたにも賜物がきっとありますよ。それは普通の生活にかかわる地味なことかもしれません。その賜物によって神様の御国の働きに仕えなさい。それが恵みの賜物です。

「恵みの賜物」という言葉自体、それがどのようなものであるかを語っています。それらは人の業績によって分けられたりはしません。もしもそうならそれは業績の報酬になってしまいます。聖霊様はそれらの賜物を御自分のお考えに従って「与えたい」と思われる人にお与えになります。私たちはその神様のお考えを知りません。ですから教会において「誰にどんな賜物があり誰にないか」という基準によって人々に優劣の序列をつけるのはよくないことです。パウロは「神様の御霊は恵みの賜物をそれらを受けるのにもっともふさわしくないような人たちに与えてくださるものだ」と言っています。「神様は教会でほとんど評価されていない会員たちを栄光によって覆い包んでくださる」とパウロは言います。一般に人に重んじられるような「恵みの賜物」のない人たちは実はそれを必要ともしていません。そして彼らは教会で「欠くことのできない存在」なのです(コリントの信徒への第1の手紙12章24節)。


恵みの賜物は正しい信仰を保証するものではありません。

三位一体なる神様が知られていないか、あるいは拒絶されているところでも、異言で話したり病気が癒されたりする現象がおこることがあります。悪魔も奇跡を行うことができるからです。悪魔は自分の働きが神様の働きに似ているところでこそもっとも巧妙に人々をたぶらかすことができます。また、ときには神様は奇妙なやり方で働かれることがあります。人々が幾つかの点で御言葉に反して信じたり生活したりしているところにも神様は恵みの賜物をお与えになることがあるのです。コリントの教会はこのよい例です。パウロはコリントの教会にはいろいろな恵みの賜物がたくさんあることをほめています。そして、それらの賜物が神様からのものではないとは言っていません。しかしながら、パウロはコリントの教会が神様の御言葉から逸脱していることがらを、はっきり問題にしています。そして「教会がこれらの問題について悔い改めなければ、主が再び帰ってこられるときに裁きを受けることになる」と警告しています。「恵みの賜物があらわれるところではすべてが正しくよい」などという考えに目をくらまされてはなりません。あるいは「神様は恵みの賜物を与えてくださったのだから、何か御言葉に反したことを行っていてもそれを神様は認めてくだるだろう」などと考えてもいけません。また、恵みの賜物があらわれているからという理由で、幼児洗礼を認めない再洗礼派の人たちと共に活動することがあってはなりません。彼らには神様が生み出してくださった恵みの賜物があるかもしれませんが、彼らは洗礼について神様の御言葉に反して教えています。「もしも恵みの賜物が私たちの目をくらませ神様の御言葉に反して教えたり活動したりするようになれば、私たちは裁きを受けることになる」と神様の御言葉は私たちにも警告しています。


恵みの賜物は真の信仰の前提条件ではありません。

「恵みの賜物があるところにのみ、あるいは何か恵みの賜物をもっている人にのみ、真の信仰がある」というわけではありません。十字架につけられたイエス様についての福音には何も付け加える必要がありません。福音は恵みの賜物を必要とはしていません。救われて神様の子供として生きていくためには「福音」だけで十分なのです。このことを、とりわけ神様が恵みの賜物を分け与えなさっているところで、強調しなければならないでしょう。また、ある種の恵みの賜物をもっていない者が、周りからそれをもつようになるようそれとなく要求され、自分をだめな存在だと思い込んでしまうような環境でも強調するべきでしょう。たとえあなたが恵みの賜物を何ももってはいなくても、またそれについて何も知らなくても、あなたはイエス様を信じてよいのです。そして、十字架につけられた主イエス様への信仰の中に、あなたは「神様の子供として生きて、天国に入るために必要なすべてのもの」をすでにもっているのです。

聖書は「恵みの賜物を求めなさい」と命じています。聖書は単純な真理を言っています。すなわち、恵みの賜物をこいねがう者はそれをいただくのです。求めない者は得ません。この「求めること」は、強制ではありません。神様や他の人たちが強制するものではありません。それはへりくだった熱心な祈りです。私たちは恵みの賜物を求めてきたでしょうか?これからは信仰者の集まりで神様が私たちに教会が必要としている賜物を与えてくださるように声に出して祈るようにしたらどうでしょうか?こうすれば、恵みの賜物が教会の信徒たちにとって「自然な」ことになるでしょう。そして、祈りは恵みの賜物を正しく用いる道を開いてくれるでしょう。また、祈りは自分が祈っている内容に深くかかわっていくことでもあります。もしも私たちが恵みの賜物を神様から願い求めたのならば、私たちは「そんな賜物はいらない」とは言えないし、「その賜物を用いたくない」とも言えなくなります。私たちが本当に必要としていると神様が御存知なものを、神様が私たちに与えてくださるように願い求めるのが、知恵あるお祈りだと思います。その賜物は、もしかしたら自分では考えもしなかったようなものであるかもしれません。

聖書は恵みの賜物を用いないで隠しておくことを禁じています。ですから賜物を用いなさい。たとえあなたが自分の賜物を恥ずかしく思っていたり、他の人たちがそれを評価していなくてもです。神様は賜物をむなしくお与えにはなりません。教会はそれを必要としているのです。

私たちの信仰の中心は「ゴルゴタの十字架」です。そこだけに頼り避難することを学びなさい。あなた自身に頼ったりしないように。神様があなたの中で働いてくださっていることに気が付いて、それを誇ったりしないように。自分が受けた恵みの賜物やそれを用いることに振り回されないように。これはなかなか難しいことです。だから、学ぶ必要があるのです。ゴルゴタの十字架こそが決して揺るがない唯一の基です。自分の中に何もよいものがないと思ったり、恵みの賜物が弱ったり消え失せたりするような場合でも、ゴルゴタの十字架は立ち続けています。そのようなときでも、ゴルゴタの十字架には、私が救われるために、また神様の子供として生きていくために必要なすべてのものが含まれています。もしも私たちの信仰が何か他のものに基づいている場合には底が抜けてしまいます。しかもあっという間にあっけなく。

もしも恵みの賜物が信仰生活を支配するようになって、十字架以外の何かが一番大事なものになってしまうとき、恵みの賜物は間違って用いられています。実際にそうなる場合があるのです。その一方では、多くの人にとって恵みの賜物がその人とイエス様との関係を新たにし、イエス様の十字架を前よりもいっそう愛しいものにしてきたことも事実です。

パウロはコリントの信徒への第1の手紙の中で「恵みの賜物はそれ自体に価値があるわけではなく、それらのなかにまたそれらを通して、「愛」が、イエス様が私たちを愛してくださったのと同じ愛があらわれる場合には価値があるのだ」と教えています。人は恵みの賜物を間違って用いることで、他の人たちを自分より下に圧迫したり忘れ去ったり、自分の利益を求めたりするようになります。しかしそれは、パウロによれば、誰かが時々思い出したようにドラムを打ち鳴らすのと同じことです。多くの人はドラムの音を聞きますが、何の役にも立ちません。うるさくて耳が痛くなるだけです。

あなたに与えられている賜物はあなたがよりいっそうしっかりとゴルゴタの十字架に頼り避難するように導いてくれますか?その賜物は他の人たちをも十字架につけられた主のみもとに導きますか?あなたはその賜物によって愛していますか?あなたはその賜物を他の人たちの状態をよりよくするために用いていますか?もしもあなたがその賜物をそのように用いてこなかったのならば、悔い改めなさい。あなたはその賜物を隠してはいけません。これからは、あなたがその賜物によってイエス様の十字架を愛しその栄光を輝かせることができるための技能と謙遜を神様から願い求めるようにしなさい。取るに足りないと感じられる賜物によっても、十字架を愛してその栄光を輝かせることができます。そのとき、その賜物は最高に価値があるのです。それとは逆に、際立つ立派な賜物が何か他のことのために用いられることもあります。そして、そのような賜物には何の価値もありません。

へりくだって用いられた賜物は教会を最良のやり方で築き上げます。傲慢や自分を他の人の上に置く態度は教会をあっという間に崩壊させます。

「聖霊様をいただいているクリスチャンは彼らがクリスチャンである証として何か恵みの賜物をもっている」という教えがあります。そして「その賜物とは異言で話すことだ」と主張する人が多くいます。「聖霊様をまだいただいていない人たちは神様の御霊をいただけるようなレヴェルにがんばって到達しなければならない」という教えも聞かれます。このような教えを私たちは受け入れません。なぜなら、聖書はこのようなことを何も教えてはいないからです。すべての「神様の子供」には聖霊様がおられます。人が神様の御霊をいただいている「しるし」は「その人がイエス様を信じている」ということです。聖霊様なしには誰もイエス様を信じることができません。聖書が語っている意味での「御霊に満たされること」というのは「私たちの中にお住みになっている神様の御霊が私たちの中でより大きな場所を支配するようになる」ということです。私たちの中でもこうなるように願い求めましょう。

「神様のもの」として生きることは、力とか奇跡ではなくて、十字架を担うことです。十字架を担うことは、弱さであり、病気であり、難問であり、軽蔑の対象になることであり、期待していた奇跡が起きないことでもあります。「このような人生を送っている人たちは、とくに他の人たちより劣っている神様の子供だ」というわけではありません。神様の御言葉によれば、実は彼らこそ、神様にとって特別に愛らしい子供たちなのです。

恵みの賜物は他の人たちも同じようにするようにいざないます。一方で、それは別の他の人たちを追い払います。私のある友人は人々が異言で話し預言している集会に出くわしたことがあります。そして「もしもイエス様への信仰がこのようなものならば、私は信仰などとはかかわりたくない」と言いました。このような集会は周りの人にこうした反応を惹き起こす可能性があるのを、パウロも知っていました。それゆえ、彼は「恵みの賜物を熟慮した上で用いるように」と命じているのです。私たちは誰もイエス様のみもとから追い払ってはいけません。それゆえ、ある種の賜物は細心の注意を払いながら用いるべきですし、ときにはまったく用いないでおくことも必要です。まずはじめに人が賜物に慣れて怖がらずにすむように賜物についてちゃんと話し教えるべきです。教えた後ならばそれらを用いてもよいのです。

神様は聖書で言われているとは反対のことをお話にはなりません。預言は書かれている神様の御言葉を覆すことはできません。聖書に反した預言があれば、それは神様からのものではありません。しかも、信仰者とか信頼できる聖書の教師と私たちがみなしている人でさえ、そのような「預言」をすることがありえます。私たちの中にある罪はこのような形でもあらわれるのです。そのような偽りの「預言」を引き合いに出して聖書に反した行いをする者は人間を神様の地位にまで引き上げているのです。そして、天国への道からさまよい出る危険な状態に陥ります。

聖霊様は聖書の御言葉の中におられ、その中で働かれています。それゆえ、神様の御霊が生み出してくださった真の恵みの賜物は人々をよりいっそうしっかりと御霊が住んでおられる神様の御言葉へと結びつけるものです。「あなたにとってその賜物が神様の御言葉をよりいっそう愛すべきものとしているかどうか」ということは、その賜物が神様からのものであるかどうか、賜物が正しく用いられているかどうか、見分けるよい指針になります。賜物が人を神様からどんどん遠ざけてしまうというケースもあるのです。そのような「賜物」は神様からのものではありません。また、神様の与えてくださった賜物が御心とは異なるやり方で間違って用いられているケースもあります。